Sunday, December 19, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第四十一章 シニフィアンの肥大化と無責任主義の横行

 「原爆仕方ない」「暴力装置」「拙劣」「法務大臣とは二つのことだけ言えばいい」「仮免許から本免許」といった失言の数々が我々にとって意味することとは、端的にある言説がある人から吐かれることに於ける不適切性の判定基準が実に皮相なレヴェルで、それが大衆レヴェルで印象づけられることである。
 要するに啓蒙的立場にある政界の人達による発言は気をつけよということだ。しかしその倫理にはある種の言葉的実感は伴われていない。要するに形だけでも粗相をしない様に振舞えという要請である。
 失言はその失言をある人に吐かせた原因や理由よりも、その失言が「失言である」と受け取られることによって齎されるネガティヴな波及効果の方がより重視される。そこでは言葉を紡ぎ出すモティヴェーションは一切問われていない。要するに言葉に粗相さえなければ凡庸であっても、言葉尻を他者から捕らえられる様な頓馬な者よりもずっと有能であるという不文律によって政界は既に支配されている。
 そこには言葉に対する責任感よりも、言葉が最初に吐かれた状況や前提となる背景よりも、それが波及した時の効果のみを重視する極度の結果主義が鮮明化している。
 しかしこれは現代政界にのみ顕著な事実ではなかった。寧ろ人類が言葉を、言語行為を有した段階で既に予兆されてきたことだ。だからこそ我々はプラトン本人とプラトニズムが、デカルト本人とデカルト主義が、ダーウィン本人とダーウィニズムが、マルクス本人とマルキシズムが何処かでずれ込んでいるということを自覚せずに青年期から過ごしてきたことなど一度もなかった。要するにイズムは必ずそれを波及させた本人のモティヴェーションから発想から、真意からずれる。これこそが真理なのである。そしてそれを考慮に入れずに言葉を外部に出す者は恐らく一人もいない。何故なら言葉を出す時内的に心に立ち現れていることと、それが相手に何らかの形で伝わることの間にずれがあると知っていればこそ、我々は敢えて言葉を出そうとするわけだからである。
 言葉にはその言葉を出そうとする意志の中に「あった」ことを鮮明に伝えようとする段で既に必ず変形、歪曲が施されているし、それを知らずに言葉を外部に出力する存在者はいない。つまり一回一回の発言は只それだけでなく、その者の行為として実績となってしまうというアカウンタビリティやコンプライアンスの俎上では端的に、どんなに些細なことであれ、真意や心の中で言葉を出そうとする時とは違う付加価値が加わる。それが誇張であったり、強調であったりといった要するに作為である。
 考えが我々の心に立ち上がる時、その考えを伝える(述べる、書き留める)時、その考えを抱いたプロセスに就いて述べたり、考えを巧く読み取られる様に計らったりする故、そこに必ず心に「立ち上がったこと」自体からすれば、変形とずれを来たす。そしてこれが意味として他者から了解され、それが相手の心に留めて於かれること、或いはそれが言い伝えられることの間には、述べたことや書き留められたことから又ぞろずれて変形される。これが波及することによるずれであり変形である。
 つまりそこに言葉が責任として問われる筋合いも出て来るのだ。
 しかしその言葉自体の意味的波及効果ばかりを重視すると、次第に言葉の力が只単に宣伝効果の様なものに成り下がる可能性もある。否必ずそうなっていく。責任は言葉自体ではなくその言葉の波及効果にあるからである。
 しかしある言葉が快く受け取られるか、そうではないかとは端的に、その言葉を受け取る側の気分の問題もある。従ってどんなに適切な意味を兼ね備えた言葉であれ、よくよく考えられた言葉であれ、それが伝わる際には誤解だけに彩られ、不快なものになる(否その言葉が適切であればあるほど)という可能性も常にセロではない。その様な不条理、理不尽、運命にその都度委ねられている受け取られ方の恣意性こそが残酷な事実であり、それはシニフィエよりもシニフィアンの方が社会では肥大化してしまうという条理である、摂理である、真理である。
 従って政治家などは、完全にその波及効果を巧く調整し、その都度結果責任、つまり言葉の意味の波及効果を適切にリードしていける者のみを政治的勝者にしていく。これは帝国主義時代の政治家に求められていたことと全く性質を異にしている。つまり営業的体裁主義であるとも言える。そこには言葉が伝えたいことなど寧ろどうでもよく、如何に伝わるか、伝えられるかという効果の問題、つまりずれと変形を如何に逆用していくかという智恵の問題となる。従ってある部分では形だけでも粗相のない様に言葉を「援用」させていかれる冷めた目が必要だということになる。それが責任倫理の発生起源であり根拠であるとさえ言える。
 終わりよければ全て良しというこの理念に於いては、内的動機や良心や内心の誠実性より、既に結果と波及効果を念頭に入れた戦略だけが価値であるという考えがある。だが、それが言葉の持つ当初からの運命的性質であり、言葉の歴史的事実である。従って歴史自体も必ず言葉の伝えられ方の中に歴史的事実内容も込められていて、それは必ず起きた事、起こった事とずれている。変形されている。その変形自体を適切に鑑みることがもし歴史家に必要とされているなら、それはそれでカール・ポパーの言う様に歴史は(解釈に於いては)科学的であらねばならない。しかし同時にそのずれ方とか変形され方も又一律ではないとすれば、歴史として「伝えられたこと」そのものを科学的に分析しても仕方ないという意味ではユルゲン・ハバーマスの言う歴史は科学ではないという考えも正しいが故に、この二人の論争は共に真実を突いていることとなる。
 その意味では常々中島義道が言う様に全ての成功には偶然性が必ず付き纏っている。要するにたまたま最初に大きく認められてしまった何らかの仕事をした者が、そのことによって次第に新たな仕事に於いて、その評定に見合う様な仕事を積み重ねる機会を与えられその機会を逃さないことによって益々成功者となっていくのである。
 仕事がその都度のピアプレッシャーに対応した構えの表明であるとしたら、その際に齎される言葉による思考もそうである。つまり言葉とはその都度の内的な心に立ち現れたことに対する表明の決意であり、表明し、それを表明すると決意することによって意志を明確化したものとして外部から評定されることを期待することによって、自らの意志を不動のものにしていこうという作為である。
 しかし当の問題は既に現代社会ではある言葉が意味として受け取られる仕方自体が余りにも予測がつかない。従って責任倫理は益々内的な決意よりも、外部に出力されたことから齎される波及効果自体に委ねられている。それを私は責任を持とうという内的決意からではなく、外部に言葉的メッセージとして発信してしまってから後に得られる波及効果を鑑みてその都度発信仕方を調整していくというある種の内的には完全責任を取れない、つまり無責任主義に積極的に加担していく様な決意こそが現代人の意思疎通には内在していると考えている。それはまさに抽象表現主義アーティストであったジャクスン・ポロックがドゥリッピングという手法によって平面キャンバスを床に置いて、その上に跨って絵の具や塗料を滴らせた刷毛からそれを跳ね落としていったその結果から絵画の描きの進行をその都度決定していった様な、偶然性に身を委ねる(それはダダイスムやシュールレリスムによって既に実験的には実行されてきたことの進化的試みであったのだが)仕方に似ている。無責任に発してその効果から責任を考えるというシュールレアリスム的手法であるオートマティズムを彷彿させる。
 その意味では我々の住む現代社会とは既にジェットコースター的に人生の成功と挫折が運命づけられている責任と無責任の境界の明確化していない極めて偶然性の強い「際の曖昧さ」を際立たせている時代なのである。しかしそれは本当に現代社会に於いてのみ切実であり始めたことだったのだろうか?
 それ自体が一つの大いなる幻影である可能性の方が強い。つまり今こそ一番切実に思える永井均の言葉を援用すれば唯今論的見方がここで採用されているだけかも知れない。
 つまり全ての存在者に於ける運命とは常にジェットコースター的に先行きどうなっていくか分からなさだけが支配している、或いはしていたのかも知れないのである。

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