Monday, December 13, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第三十九章 一般化、波及効果と普及

 波及するものは創造者にも予測し得ないということを前章で述べた。しかし波及するものそれ自体にはそういった性質が備わっていたと考えることが出来る。誰しも自分にとって自信ある創造物を普及させたいと願う。しかし予想外に「~すれば~なる」式の予想は当たらない。それが完全には理解され得ないから我々はチャレンジする。完全に普及しきってしまうに違いないと思えることと、そうであると知っていることの間には天と地ほどの距離がある。何故なら普及すると分かっているものは普及させる価値すらないとさえ言えるからだ。それは自明なことである筈だ。
 白鵬があと少しで双葉山が打ち立てた連勝記録を凌駕するというところで負けた一件は記憶に新しいが、実際双葉山の天才性には様々な要因が絡み合っていて、それはある種の偶然性の集積という奇蹟でもある。例えば彼の記録がどんなに偉大でも、それが人間の範囲を超えていないということが重要なのだ。
 ウサイン・ボルトもチーターと走って短距離で敵った走者ではなし、そういう走者はいない。同様に双葉山でもゴジラやキングコングと戦っていたわけではない。
 恐らくそれが双葉山と同じ様な記録を出し得たかも知れない、能力の保持者は世界中には何人もいただろう。否日本国内にさえいたかも知れない。しかし前者に於いてはたまたまその国には相撲という競技自体がなかったのだし、後者に於いてはその人もそうだし、その人の家庭環境が相撲に全く関心がなかったのだし、仮に関心があったとしても相撲取りになることを両親が許さなかったら、実現しないこともあり得る。
 しかし双葉山は違った。あらゆる条件が揃っていたし、且つ彼自身も非情な努力をした。
 そういう様な意味でデカルトのコギトも、フォードの自動車も存在しているのかも知れない。
 しかし恐らくデカルトのコギトと同じ様なことを考えていた人はいた筈だ。だからこそデカルトがそれをそれまで考えてきたことはあっても終ぞ明確化せずに終えた無数の人達を代表して、明確化し得たからこそ、後代の人々の多くが(全てでは勿論ない)なるほど、そうだと思えたのだ。
 それはデカルトがコギトを通して示したことが皆一度は考えたことがあるのに、それを大したことであると思わずに遣り過ごしてきたか、明確化せずに見過ごしてきたものの中で、デカルト本人だけは価値ありとして、書き留めておき、次第に理論化していったのだ。そしてそれはその時点で彼自身でもある程度の波及力を持つであろうという自信があっただろう。しかし彼の死後数百年と経っても色褪せることなく受け継がれていくなどとは彼自身さえ予想出来なかったのだ。それが真実に偉大なる波及力と言える。波及しだして普及しきってしまえば、それは一般化される。それはデカルトの特許では最早ない。それはフォードの発明した自動車を運転する際に一々彼に特許料を支払っているのではないことと同じである。
 しかし波及効果を持ち、普及しきるという事実の前では一度は誰しも考えたことがあるということが極めて重要なのだ。我々はどこかでそれらに対する記憶を痕跡として残している。その痕跡を擽るということが重要なのである。だからこそ「そうだ、その通りだ。この考えは素晴らしい」と普及していく様な波及効果を持つのである。
 それはある部分では善的な存在ばかりではなかっただろう。近著「善人ほど悪い奴はいない」で中島義道が示しているヒトラーもそうであった。しかし彼の考えや戦略は後世に於いて悪しき例外として位置づけられるに至っている。それが何時までそうであるかは私にも予想出来ない。又いつかはヒトラーの愚行自体が英雄視される時代が到来しないという保証は私にも確約しきれない。
 しかし存在の仕方として善的である偉大なることとは、何処かで郷愁を誘う要素があるのではないだろうか?それはデカルトのコギトにもあったし、自動車の様な利便性の極致であっても、あるのではないだろうか?
 体格にしても技能習得にしても、双葉山と互角に戦える条件の持ち主は他にもいた。しかしその条件を双葉山がなした偉業へと費やす決断と、それをさせる環境が他にはなかった。であるからには双葉山自身も、或いは全く別の方向へ自ら持って生まれた条件を利用して、例の連勝記録を打ち立てることはなかったにせよ、別の偉業をなし遂げた可能性があるものとして、例の偉業を成し遂げたのである。
 それは本人の中では「~をしなければ~をしていたであろう」という終ぞ実現し得なかったことへの郷愁となって時々立ち現れているということはあり得る。私くらいの才能の者にでもそれはある。
 偉業や偉大なる発明は時間が経てば一般化される。普及しきってしまえば波及力さえ過去のこととなる。波及効果は、その発明や発見や偉業が、それをなした人と付帯して切っても切り離せない状況下であることを示している。しかし普及しきってしまえば、或いはその事実に疑念を誰しも抱かなくなった時、それは一般化が果たされた、と言える(それはデカルトのコギトが哲学者内にある程度留まっているのに対し、ガリレオ・ガリレイによる「それでも地球は回る」ではないが、太陽の周りに回っていることを本気で疑う者はいない。そしてフォードの名を一々記憶せずに車を運転している人が大半である)。

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