Sunday, December 12, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第三十八章 何物も世界を変えることは出来ない/エリートも時代の寵児も神にはなれない、否なったとしても

 誰しも野心家であるなら、如何にして自分が想念し得る理想の世界へと、現世界をシフトさせられるだろうかと考えるだろう。これは別に狂人の発想ではない。意外と普通の考えなのである。
 そういう風に世界を変えてみせるとか、見せたいとか思うこと自体にはある自然さがある。つまりそういう風に世界と関わる意志と欲求があるということだからだ。
 しかしそれは容易ではないし、又今迄それを実現させてきた者がある意味では一人もいなかったとも言える。アレクサンダー大王も、チンギスハーンも、ヒトラーも世の中を変えることが出来ただろうか?
 ではそもそも世の中を変えるということは一体何を意味するだろうか?
 それは恐らく私の考えではカリスマでも支配者でも独裁者でもない。それはあくまで人間生活の一部を変えるということを意味し、それは人間の習慣と技術である。
 この二つはある部分では確実に世界を変える。或いは変えてきた。
 如何なる時代の寵児も、少なくとも現代では出版界、マスコミ全般を総動員しても、その手法と、既成概念の踏襲から世の中を変えているのではなく、世の中の動向(精神史的にも生活技術論的にも)反映しているのであり、一時的な大衆啓蒙への幻想の中でカンフル剤として作用しているに過ぎない。
 何故ならそういった革命的行為の様に映る著述内容や講演内容、或いは時代の旗手としてのイメージ自体が旧態依然的保守主義の向こうを張る形で既に保守勢力と手を結んでいるからだ。
 しかしそういった動向を支えるのが仮に大衆と呼ばれる層であるとしたら、そしてその時代の寵児を持ち上げつつ、その著作を購入することを通して出版界やマスコミが新刊本を刊行し、テレビに出演させることを通して、その寵児の持つイデアを普及させようと世間一般が動く時、それを動かしているのは彼を寵児として認可する消費者の行動であり、彼の本を読むことを習慣とする諸決意なのである。
 その意味では永井均が朝日カルチャーセンター講義で述べていたデカルトのコギトが世界的に哲学界に普及していって、その後の哲学動向の幾ばくかを大きくシフトさせたとすれば、デカルト自身のアイデアもさることながら、それを運んできた文字であり言葉である、という問題提起は大きな意味を持つ。
 寧ろデカルトがコギト・エルゴ・スムと言った時、それを意味化してきたのは、或いは哲学命題的に価値化してきたのは、それを文字化した制度であり、その言葉自体である。その意味では仮にコギトの神がデカルトであったとしても尚、デカルトという神自身は、自らがその言葉によってなした行状が後世にどういう波及力を持っていくかということまでは予想し得なかった。つまりその事実こそが神とは万能ではなく、有限の力しかないという永井均の「私、今そして神」の主張を裏付けることとなる。
 従って仮に時代の寵児となっていったとしても尚、その寵児が自分の考え出したアイデアが波及していくその全過程を予想することは出来ない。車が現代社会の必須アイテムになっていく過程の全てをフォードが立ち会うことが出来なかった様に。つまりフォードは確かに自動車を発明した。しかし彼の発明がどの様に世界を変えるかということまでは想定出来ず、世界を変えたのはフォード自身ではなく、全ての自動車ユーザーであるドライヴァー達であり、そのドライヴァーの存在によって恩恵を被った乗車した人達であり、その利便性を享受することを習慣化した全ての人達自身と、彼等による利用習慣自体である。
 その意味では学者や専門技術者達は一番そのことをよく知っている。何故なら彼等は自分達のしていることが後世にどういう波及力を持ち得るかを想定することは出来ないし、又出来るのであればそれをすることを躊躇せざるを得ないとも言えるからだ。
 かつてノーベル賞受賞者全員にパネルディスカッションさせた所、一切話しがちんぷんかんぷんだったという話を聞いたことがある。当然であろう。彼等は全て別箇の分野のスペシャリストであり、であるが故に相互に共通した経験を持たない。共通した経験を持たぬ者同士が学際的な意見交換をすることが出来る筈がない。そしてそれを一番学者達本人が知っている。或いは技術者、エンジニア達本人が。
 経験が共有されないということは分析哲学でよくある、ある人達が共に同じ雲を見ていても、それが同じ様に見えているとは限らないということとは違う。そういうレヴェルで言っているのではなく、共同注意的にその場に居合わせればある程度の共通了解を得ることが可能だという意味で、である。つまりそれすら違う専門家同士では物理的に実現不可能である。その様に経験が共有されぬ限り、本質的に学際性自体は成立不能である。
 従ってそれ等専門的技術、ノウハウ全体を統合することも不可能である。又それでよいと知っている者のみが専門的フィールドで成功を収めることが可能である。
 ロボット工学者達が仮に会社のフロント嬢のロボットを如何に精巧に作り上げたとしても、終日そのロボットと共にいて尚且つ絶対にそれがロボットだと気づかないままでいられるということ自体が決して実現不可能であると知っていればこそ、そういったロボットを開発し得るのかも知れない。
 何故なら、もしそれが可能だと思った瞬間、それ以上精巧なロボットを開発していくこと自体を、その実現による波及力によって不気味な社会が到来するのではないかという恐怖と共に躊躇するかも知れないからである。安穏ともっと精巧なロボットを開発することに勤しめるのが、それが一時のマジックでありフェイクの範囲を超えないことを彼等が一番自覚しているからである。

 もしこの世の中に本当にエリートと大衆というものの差があるとしたら、エリート達とは端的に、自分達がどんなに努力しても世界を本質的に変えることなど不可能で、絶対に微々たる改革しか遂行し得ないということを知っている者のことをのみ言うと言っても過言ではない。
 アーティストだって文学者だって、自分が作る作品が世界を変えられないことを重々知っている。ほんの些細な共鳴しか創出し得ないことを知っている。そしてそれは諦観とかニヒリズムではない。そう思っていられないのなら、寧ろ精神病理的状態である、と言える。
 逆に大衆というものが本当にこの世の中に存在し得るとしたら、何時まで経っても真剣に人間とロボットの境界を無くせ、何時かロボットと結婚して幸福になり得る社会の到来を夢想することが出来るということかも知れない。しかしそれはそれである種の精神病理的状態であると言える。
 ここで示したエリートの本当に世の中が変えられるという幻想と、何時かエリートによって世の中が完全にユートピア(それがその者が夢想するユートピアであり、決してそのユートピア自体は他の人達との間で共有されていないということが問題なのである。それは極めて独我論的な夢想なのであり、公共性も普遍性もないのである)が到来するということを期待し、夢想するということがもし何らかの形で接合し得たのなら、まさに共同幻想的なリンケージが発生し、かつてのナチズムの様な状況の到来を意味することになろう。
 従ってそういった精神病理的な夢想や夢物語を語る者をエリートとは通常見做さない。もし実在的に、現実的にエリートが必要とされているとしたら、それは現実の些細な局面での意識改革のみ可能であるということを熟知していて、それを啓蒙しようとしつつ、全ての人にそれを伝えられないことをも熟知しているということになる。勿論中には完全に世の中が変えられると夢想している人もいるだろう。しかし実際上彼等は絶対に世の中に一定のパワーを獲得することは出来ない。つまり出来ないからこそ、彼等は夢想者なのである。
 フォードは自動車を発明したという意味では、コギトの発明者でもあるデカルト同様神である。しかし神にも永井均が言う様に限界があるのである。そしてその限界を何かを発明しようがしまいが、最初から知っている者のみをエリートと呼ぶべきなのであり、それが出来るのだと大衆に思わせる者、又自分自身も大衆からそういった要望を付託されその気になり、実現可能性を信じる者をエリートとは呼ばない。又呼ぶべきではない。それは扇動者と呼ぶべきである。
 従ってゲームソフトの開発者達は恐らくゲームによってもし世の中を変えられるとしても、それが極一部であることを知っている。ゲームソフトを日常生活で活かすことの出来る人も一握りだし、ゲームソフトの世界を現実であると受け取る精神病理的状態の青年達は世界の何も変えない。変えないが故にネトゲ廃人となっても、それはゲームソフト開発者の目論見の範疇である。勿論全ての人達がネトゲ廃人になる様な事態になっていった時に初めてデカルトのコギトやフォードの自動車の様に、本人(神)さえその波及力を予想し得ないということになるのだが、実際上ゲームソフトはそこまで普及しないだろう。事実それをしない中年や老人だけでなく、青年も大勢いるからである。
 もし世の中全体がネトゲ廃人になったら、まさに世の中の人全員が喫煙により寿命を短くしていく様なものであり、ゲームソフトは一切収益を上げられなくなるだろう。つまり一部の人達がネトゲ廃人となり、一部の人達が有効利用出来るということを彼等開発者達は知っていればこそ、それを何時までも開発し得るのだ。それはアーティスト達が自分達の創造する作品世界が極めて一部の人達だけに愉悦を与えると知っていればこそ、アートに全く関心のない人達へ啓蒙する使命を持ち得、自分達がそれなりにエリートとして君臨出来ると知っているからこそ、ギャラリーや美術館と協力し合えるのと同じである。
 その意味ではアートのモードも自動車のエンジンも哲学命題であるコギトとかそれ以外の多くの概念も、全て、それを発案した人を神としつつも、それ自体自立して、それを利便性として享受する人達と共に、そのものの力によって習慣の一部を若干変えていくことで充足されている。
 だから波及力という観点からmemeとのたまったリチャード・ドーキンスのもう一つの謂いを借りれば、ヴィークルvehicleであるデカルトやフォード(という神)を借りて、コギトといった概念や自動車の利便性自体が神から自立してユーザーの利便性享受と合致して、その事実が世の中を変えていくのである。勿論一部かなり変えるが、別の一部は一切変えないという形で、である。
 ところでこのドーキンスのmemeもvehicleもかなり大きく波及した概念である。しかしそれすら未だにアインシュタインの相対性理論(特殊、一般共に)が完全普及しているとは言い難いのと同じ様な意味でやはり一部である。そのこと自体のアレゴリーとしてもアイロニーとしてもこれらの概念が君臨しているということも実に興味深い。
 そして恐らくアインシュタインもドーキンスも彼等の提出した概念が全ての市民によって完全理解された段階で完全に過去のものとなり、まさにガリレオ・ガリレイが狂人ではないと現代人が知っている(狂人以外)様な意味で一般化されるのである。その段階では彼等は既にエリートではなくなる。そしてそこには大衆もいない。
 従ってエリートとは大衆がいる、という幻想だけは完全捨象仕切れていない人ということにもなり得る。そして自分をエリートと考える人がもしそうであるなら、いっそ自分自身がどんなに高い社会的地位にありながらも、一部ではそれを恥じていて、或いはその微力であることを熟知しているということになろうか?すると再び翻ってエリートとは自分自身ではエリートとも思っていないし、大衆が向こう側にいるとも思っていないが、周囲が彼(女)自身をエリートであると見做したくなる、そういう存在であるということになる。
 しかし前章でも書いたが、実際上政府指導者層もジュリアン・アサンジ氏もそれなりにエリートであったとしても尚、彼等自身双方共に情報摂取という人類の不可避的現実自体に乗っ取られているということこそが極めて問題であり、苛烈な事実なのであり、それは現代人自身がパソコンを使っているのではなく、既にパソコンに使われているのだという苛烈な事実と同様、問題にすべき論点とはそこにあるのである。
 次回はその点に就いて考察してみよう。

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