Monday, November 15, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第三十三章 先行きの見えない気分転換

 かつてジョン・ケネス・ガルブレイスによって「不確実性の時代」と呼ばれた頃我々は未だ何処かで未来に対して確固とした像をぼんやりとではあるが、思い描くことが可能なのではないかという期待と不安の入り混じった気持ちでいた。それはある程度経済的困窮が解決されれば、何とかなるのではないかという能天気な楽観主義が完全には棄て去られてはいなかったということを意味する。
 しかし現実にはそういった楽観的憶測とは裏腹に我々の社会は益々先行きが不透明な時代へと突入したと言える。その典型的象徴的事件こそ大阪地検特捜部証拠隠滅事件であり、尖閣諸島中国漁船衝突事故映像流出事件だったと言える。
 しかしそもそも先行きとは常に不安定であり、我々の心の奥底に不安を生じさせるものでしかあり得なかったのだ。しかし十数年前までなら我々は経済社会での、とりわけ商業資本主義と金融システムの良好な運営によって何とか少なくとこの先十年というスパンでの展望は立てられると思っていた。
 しかしその能天気な予想は無残にも打ち砕かれる。それがリーマンショックでありサブプライムローン問題であったと言える。
 それに加え現在では既に我々の社会を取り巻く環境に於いて極めて重要且つ必須のものであるところの情報に関する摂取の仕方と、情報流通の仕組みそのものが大幅に変わった。それは激変という形ではなく、寧ろ根本的情報の存在理由の変化である。
 例えばかつて我々は人類には基本的に全ての階層や全ての職業、全ての年齢の人達によって共有され得る価値や理念があるのだ、ということを疑うことはなかった。寧ろ全ての専門分野がその前提の下に推進されてきたと言ってよい。
 しかし今日それらの大前提自体が既にがたがたと音と立てて崩れ落ちようとしている。
 このことは寧ろスタートする時点から全ての命題を考え直さなければいけないということを意味している。
 情報は全ての人類にとって共有されるべきでもなく、そうなっていくことも寧ろ積極的に「不可能」であると言っていいほどの性質のもとなっている。つまり情報自体が最初から全ての個から見て異なった像であるしかないということを通し、自然科学などでは既にハイゼンベルグの不確定性原理などで物質の存在に対して突きつけられた命題を少し遅れて社会科学に於いてやっと到達した様な感がある。
 尖閣諸島中国漁船衝突事故があった時既に世界各国の首脳はその情報を得ていただろう。従ってその後のロシア大統領メドベージェフによる国後島訪問は、その期に乗じた行為であったことは明白だ。
 要するに鳩山前首相が普天間問題で困窮したが為に麻生元首相までの間に自民党との間で締結されていた案件が全て一旦棚上げにされたことによって、米政府との間に不必要な不協和音を奏でさせたことを各国の首脳は熟知していた。その流れで尖閣諸島の中国漁船衝突事故以降の全ての事件が起きるべくして起きたと言うべきである。
 従ってこの期に乗じて韓国までが竹島問題に言及してこなかったこと(今のところそうであるが)に、日本は韓国経済がかなり上向きであることに感謝しなければいけない。それは韓国国民の心意気に対してではなく、あくまで国際経済社会的偶然に対してである。
 しかし中国のバブルもいつかは(それがいつかは定かではないが、そんなに遠い話ではないと私は思う)必ず弾ける。その段階でインドか韓国かシンガポールかインドネシアかヴェトナムかが世界の経済動向のキー的存在になっていたとしても、その事実はそれらの国々もやがて昨今のアメリカや日本、そしてやがて中国すらも経験するであろう末路を辿るであろうという事実の前では極めて無力で非力な事実でしかない。
 一番現代社会で問題化されざるを得ない事実とは、全ての情報が次第に中央統括システムによって管理したり操作したりすること自体が不可能となっているということである。この事実はある意味では世界中の全ての国家、政府の存在理由を根底から揺るがす。何故ならそもそも情報とは国家や政府といった存在が何処かでは統括し得るという前提で全ての国家共同体は運営されてきたからだ。
 しかし恐らく今後あらゆる商取引に関するデータでも推測でも瞬時に世界を駆け巡る時代に於いて、そもそも商業行為上での秘密とか公平性というもの自体を死守する事自体が、インターネット、グーグル、YouTube、WikiLeaksなどが完全定着していなかった時代に於いてのみ成立し得る資本主義社会の規準であるとして全く無力且つ弊害とすらなってきている。
 しかしかつての様に全ての情報を何らかの形で制御し、管理していく為には世界的規模で今迄に行き渡ったインターネットインフラ、ウェブサイト全てを破壊するしか既に手はない。
 しかしそれは不可能である。何故ならそれは法的にも人類の自由への志向を侵害するし、商行為的にもそうである。つまり世界の隅々にまで浸透してしまっている毛細管現象的ネットワークは、その時点で世界のどの区域もどの機関も中央統括的立場に立つことは所詮不可能であるということを意味している。
 それはアメリカ政府であれ国連であれ実際上只の一つの中継点でしかないという地位へと脱落させる。
 かつて「世界の中心で愛を叫ぶ」というドラマが反響を呼んだが、まさにパソコンを所有している各個人が全て世界の中心になり得るということを象徴していたタイトルだったとも言える。そしてその事実を今回の流出映像事件は物語っていた。
 そうすると、今後世界は商取引レヴェルでも何らかの案件に対する処理でも、例えば商取引に関わる企業や法人、或いは案件に直接関わる当該者達自身のその時々での利害という安易な発想では一切それらを推進することが不可能となっていく。何故ならそれらの行為の末にAであれBであれ想定され得る結果次第で世界はどうなっていくかということを瞬時に世界市民全体が予想し得るからである。
 従ってこれからの全ての経営者、政治家達はかなり慎重でかなり情報的戦略を駆使した決断をその都度出していかなければならないという熾烈な課題を突きつけられたことを意味する。
 ある意味では全ての秘密、全ての秘匿的行為を無効化させていくだけの力がネットインフラにはある。
 そしてそれはかつての様な大企業や大財閥的な存在、或いは長期持続的政権運営や維持自体を不可能とする、つまり安定的な政治経済状況を決して許さない、常に不安定でどちらへと転ぶか不透明であるという事態だけが恒常的に持続していく、そういう時代、否既に時代ではくずっとそうである様な状態に我々人類がシフトしたということを意味する。
 そういった状態へと完全以降してしまった人類の心には既にかなり大きな気分転換を余儀なくされているということが出来る。恐らく精神分析的に言えば、その気分転換はその先にその気分が打開されれば、あれこれこういうことが出来るとか、こういう気分になると予想することが不可能な、ある意味では常に気分転換を求めていくしかない、それでいてその気分転換は一切その先にどうなっていくという保証のないものとして我々人類が絶滅するまで持続していくのではないだろうか?
 このこと自体は既に我々人類にとって否定的ニュアンスとして溜息をついている暇を我々に与えていない。寧ろこの不安定を人類自身が愉しんいくしかない。つまり先行き不透明なのにもかかわらず、常にその不安定から脱出することだけを志向し、それでいてその先にどうなるということを絶対に予想し得ない様な気分転換の恒常的状態をゲーム感覚で愉しんでいくしか手はないのである。
 世の中には数多の文学賞や文藝賞が存在するが、毎年の様に多くの受賞者を輩出しているが、その中の何人が長期的に活躍する作家となっていくかは審査員となった作家も出版社も予想することは出来ない。それと同じ様に世界経済から一国の政治さえ、恐らく数年先までも見通すことなど出来はしない。
 従って今回のAPECによって日本が現政権時代に北方領土問題を解決し得るなどと誰も期待していない様に、常に一つの政権がなし得ることはほんの一つだけ、それは経済社会に於いて金融問題から税金対策まで全てを一挙に解決することが不可能な様な意味で、或いは情報機器的メーカーの戦略が何もかも全ての分野でトップに立つことも、新奇商品戦略を打ち立てることも不可能である様な意味で、極めて常に限定的で短期的目標しか立てられないということを意味する。
 つまり永遠に我々の社会も国家も政府も、理想的経済良好状態も到来することはないし、全てが解決し安定化することがないという不安定状態だけが恒常的に持続するということを意味する。
 しかしそれは実は人類が誕生した瞬間から決定されていたことなのだ。しかし戦争により、とりわけ人類発の核兵器使用というおぞましい出来事を経験した世界市民が第二次世界大戦終結時に、その安定を希求したのだった。しかしそれが一時の苛烈な戦争から解放された時代の人々によって思い描かれる幻想であったということだけが自明化していった数十年だった気さえする。
 そういう意味ではまさに東浩紀の言った様に「大きな物語の崩壊と小さな物語の林立」という「動物化するポストモダン」的状態こそが平素であるこの時代で我々はよくかつて言われた集団生活とか社会生活への同化、協調を促進する為の人生論が全く効力を失い、寧ろ各自に備わったパーソナリティ障害的要素、かつて恥部とされた部分こそ着目して、昨今もあった小学生自殺事件に見られる様ないじめに対する抵抗力を備えさせていく必要がある。
 それは強ければいいということではない。大半のいじめや嫌がらせに慣れていく必要があるということである。渡辺淳一や小泉純一郎の言った様な鈍感力の価値の再考をすべきだということだ。
 従ってこれからはかつて理想とされた孔子等による老境的理想を絶対に許さない、癌患者でさえ死ぬその日までは社会から疎外されたり同化出来ずにいる事自体への対処に追われたりして、絶対に老化や安寧を許さない厳しい時代に突入したと言える。と言うことは「そういうことは若い奴に任せておけ」、或いは「そういうことは上の者に任せておけ」という様な言説を一切許さない、あらゆる前例や社会通念踏襲的安定を許さない、まさに各自世界市民が個で自己防衛し、自己主張し、自己管理することだけがあらゆる個を救うという時代に突入したことを意味する。
 実質的に世界は無政府状態こそが普通であるという時代へと今後益々突入していく。そういった中で我々一個の個は、まさにそうであるが故に中央統括的権力や決定的指導力や唯一価値を信仰し得ぬからこそ青年世代に哲学や精神分析が大きな啓示を与えている様に、既にカストロとゲバラによる革命的行為も、長期安定的政治家による政権も、バブルも、恐らく二大政党制も一切実現し得ぬままに今世紀を過ごしていくことだろう。
 それはまさに先行きの見えない気分転換を常に四苦八苦している様な恒常的落ち着きのなさを体験していく(それはまさに常に性行為の相手がいないことにもどかしさを味わっているか、まさに常に性的絶頂だけを長期持続していくことに慣れるかしかないということに近い)ことである。そういう時代に生きていく為には自己内のパーソナリティ障害的要素を価値的に見直し、自己内の今迄短所であると理解していたあらゆるネガティヴ要因を、逆に肯定的に活かしていく回路を探っていく必要がある。
 この問いは極めて重要なので、再び取り上げることとしたい。

No comments:

Post a Comment