Thursday, August 26, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十九章 言語―情動、価値、倫理

 言語行為をする時私達は「AはBである」という形で何かを相手に伝える時、その相手を選んでそのことを伝えるという一事を取っても、既に情動的行為であることが了解される。その相手は今話している相手でなくてもよかった筈だが、どういうわけかある話者を相手に選んで何かを伝えているのである。だからそれがジョン・ラングショー・オースティンの言うconstativeであったとしても尚、特定の相手に何かを伝えるという状況全体が既に情動的である。
 語彙選択がもし相手に従ってある程度限定されるなら、それもまた情動的であると言える。年配者や社会的地位上位者に対する配慮の中にも情動的判断がある。
 言語行為自体が既にそういった相対的な対他者判断が介在している以上、どんなに形式的、対外的な言辞であれ、発話であれ全て情動的な位相から語られるべき筋合いのものである。
 だが情動とはそれが発動されるということ(勿論脳内で、であるが)には、それ以前的に一つの社会制度的呪縛と、それに対する半強制的同意という事実がある。小学校を卒業すれば中学校に行くという順路もそうだし、税金を払うという義務もそうである。
 要するに社会制度的な追随的行為自体への懐疑心などそこに持ち込む余裕はない。だからこそ逆にその事実全般に対して反省意識(勿論それも言葉を習得しているという制度受容的現実に支配されているのだが)を個的に持つ時に、我々は価値的な認識を抱く。それは日頃どんな些細なことに於いても持つ心の作用であり、それらが集積されて一定の信条とか人生に対する思想を持つということが、個々の場面にも情動を発動する誘引材料ともなっている。
 つまり自己に対して他者自体が環境である様な意味では自己さえもが環境なのである。それは身体的存在論的にもそうだし、物理的な意味だけでなく精神的にもそうである。
 従ってそういった固有の環境の所有者として、或いはその住人として生存している我々は個々の場面に於いて情動を発動する時、明らかに既に一定程度常に確立されて保持している信条や人生に対する思想という裏づけ、或いは背景と言ってもいいが、そういうものによって意味づけられている。従ってどんなに感情的なことであっても動物本能的な部分を持っていても尚、それは認識論的な意味でも存在論的な意味でも言葉習得者としての思考秩序と無縁で成立しているわけではない。
 又価値自体は常に主観的部分を持つだけではなく、その主観的部分を社会成員全般との間で一致部分と齟齬部分を自己なりに常に意識しているから、自己と他者一般、自己と共鳴し得る他者の考えとか、そういった相対的判断も必ず介在する。そこで我々は価値自体の体系に対して、その体系に対する明示的認識がない場合でさえ、一定の思考をする。そこから倫理的問いが産出されるのである。
 もし地球上に私一人しか生存していない状況である日突然私が地上に存在を齎されたなら、私は果たして自己という意識を保有し得ただろうか?もしし得たとしても恐らく今の様なものとしてではなかっただろう。
 つまり価値とは既にそれが成立する段階で、自分以外の多数の生存者としての人間の存在を前提している。そしてその多数の存在の中の一個の存在という認識が根底にあればこそ、我々は価値を自己のものとして他全般との対比の中で価値化し得る。そこには当然一致部分と齟齬部分双方へ認識が張り巡らされている。
 価値自体が孤立的なものの様にかなり思われる場合ですら、それはウィトゲンシュタインが後期に到達した概念である「私的言語」同様、一個の生存者だけでの共同体の非存在では成立し得ないものと少なくとも私にはそう思われるのだ。
 価値とは漠然とした何か大きなものという認識があると同時に、ある特定の領域に於いて自分にとって価値あるもの、つまり具体的なものもある。例えば小説家がどこそこのメーカーのプリンターが文章作成後のプリントには適しているとかの考えも一つの価値であろう。
 しかしその様な個別具体的な価値とは、それよりは大きな価値、つまり今の例で言えば、小説家は小説やエッセイを書き、それを発表してそれで稼ぐという社会的制度上での行為事実が前提されていて、それ自体も又一個の社会内的価値である。
 つまり一個の固有の価値はそれ自体だけでぽつんと存在しているのでは決してなく、あらゆる他の諸価値との間での相対的位置関係を常に意識的ではない場合にせよ、持っているのである。
 そこに初めて価値全体を支える体系、つまりその時々での私達自身による判断を一般的傾向から、特殊な決意を産出することに至るまで規定していく様な指針として立ちはだかる。
 それこそが価値全体を例えば一個の個である「私」が抱くということであり、その事実全体を支える認識力である。しかしその認識力は常に私を個として成立させる社会成員全体の共同体的秩序や、制度上での半強制的現実に晒されている。そこにその現実自体に対して好悪、善悪、快不快を判断させるべき世界の体系がある、と言ってよい。その自己内価値体系と、世界にもそれがある意味では自己内価値体系の雛形として、ある意味では社会通念的見本として、ある意味では対自己的に強制してくる脅威として存在し得るものこそ、倫理体系的な価値である。
 それが先行しているのか、それともまず自己内価値体系が先行しているのかとい問いは無意味である。既にそれらは一束で纏まった思考の作用である。
 世界自体を覆う体系自体が言語的認識を言語習得してきた我々の幼少期に既におぼろげながら介在してきたというのは紛れもない事実であるし、それを並行させて自己内価値体系は我々をその都度自己内で要請されつつ保持してきたのだ。
 倫理がもし漠然としてでも大切なものである(それは守るとか守らないということ以前に思考することに於いて、反省意識に於いても現在時点での決断とか意志とか意図に於いても)という意識が我々にあるとしたら、それはこの我々自身が言語習得してきた幼少期から現在迄の思考航路自体への反省意識と、それなしに言語共同体内で生存してはこられなかったという事実への覚醒によってである。
 従って倫理自体が全ての情動を決定すると言うよりは、寧ろ倫理という概念を殊更思念する時があるという事実とは、端的に情動的にある行為を正当のものとするか、そうではないかという思念が自己行為に於いても他者行為観察に於いても思考上介在するという事実を持ってであろう。ある好悪、善悪、快不快を情動的に判断し得るという能力こそが我々をして、それらを一纏めにして世界全体の価値体系というひょっとしたら幻であるかも知れない絶対的規準を想定せずにはおかない。つまりそれが幻想であれ思念されるという事実があらゆる社会投企を我々が試みるという行為事実の根拠であることは間違いない。
 その中でも我々は常にそれを行為として意図として決定させるものがやはり自己内価値体系であることを知っている。勿論それは行為している時には一々そう思念されるわけではないものの、ある行為を終えて後そうだったと考えることが出来る。
 そして自己内価値体系全体が常に外側に思念上、問題設定上、仮想されている世界全体の価値体系と連動しているという事実全体を認識論的に我々に納得させ得るものこそ倫理である、と言ってもいいだろう。
 そしてその倫理への問いにもまた、情動的判断は常に付き纏う。
 従って世界とは全体的価値体系という幻想を自己内で創出することで他者全般へと我々を接する様に仕向ける事実自体を、一個の世界事実として容認させる様な一つの秩序である。そしてそれは価値を巡る例えば「私」個人と、それ以外の全世界構成成員との間の関係を倫理から規定するべく思考させる様な形での思考判断自体が情動によって誘引されている、と言うことも出来る。
 従って因果的先行関係を全ての思考行為根拠として設定することの不可能性だけが、情動的発動と価値設定の不可分性、価値認識、倫理的反省という一連の思念と行為を意味づけるとも言い得るのだ。

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