Monday, August 2, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十六章 感動の構造

 私達は何らかの形で日常生活で感動を味わうことがある。それは日常的に些細な場面に於いてもだ。しかし感動の中でも演劇や映画、映像、戯曲(つまりドラマ全般)を読んだりする時の感動は、又一際変わっている。勿論その特殊な感動を我々は日々求めてやまない。
 今回はそれを取り上げて考えてみよう。
 感動とは何処か我々自身がいつか死滅することを我々自身が知っていて、その儚さ自体への諦観とか、虚しさと関係があるかも知れない。
 だから感動は自分自身の行状に対してであるが、より直接的に感動している自分を発見し得るのは他者全般への感動だろう。その中でも先ほどのドラマ全般からの感動は、より自分自身で感動していることが理解しやすい感動である。
 それを少し分析してみよう。
 とりわけ悲劇的結末のドラマに関して考えてみよう。

 私達は悲劇を好む。それは悲劇的現実が実際にある事を知っているからであり、その現実の冷酷さそのものを必死に生きる我々自身にそこはかとない感銘を受ける。生きているということを感銘する自分をまざまざと見つめつつ、しみじみと感じるのだ。
 悲劇には最終的には救いのなさがあり、その救いのなさに自分自身が巻き込まれる可能性は常にあるが、その可能性が現実になる迄は他者がそれに巻き込まれていく姿を見て気の毒だと思う。憐憫が生じていることが、悲劇をより感銘に咽ぶものとする。
 だが肝心なことは、可能性としては何時何時自分も同じ運命を辿るかも知れないけれど、今現時点では未だそうではないという状況が外部で自分自身へと語りかけるドラマに感動することを許すのだ。その意味では感動とは残酷さと裏腹であるとも言えるし、それを皆どこかでは知っている。
 それは自分自身は安全地帯にいて、その安全地帯にいない気の毒なヒーローやヒロイン達を鑑賞することを通して、ああ自分自身はそういう状況に巻き込まれていずによかったと溜飲を下げる仕組みでもある。
 悲劇には古代よりギリシャ悲劇とか色々な伝統的な文化がある。ウィリアム・シェークスピアも同じ様に過去の文化遺産から咀嚼している。ギリシャ神話「ピュラモスとティスベ」をベースに書いたとも言われているし、ヴェローナというイタリアの都市に15世紀(間違いかも知れない)にあった教皇派と法王派との市民同士の争いで実際にあったことをベースにしているとも言われている。
 しかしシェークスピア自身が着目していたのは、当然のことながら、人々が悲劇に感動するという体質を先験的に持っているということそのことである。
 悲劇的結末を迎えるドラマに対してある種の感動を我々が得るのは、余りにも巧く行き過ぎること自体に懐疑的であるからだ。それは自分自身の人生を振り返ってみても分かることだし、他人の人生を見ていても分かる。
 余りにも幸運な人というのは殆どいないということを我々は知っていて、それどころか大半の人達が恵まれず、不遇であることを知っている。
 だからラッキーな主人公のドラマも時には息抜きにはいい(特にアクション映画などではそうかも知れない)が、いつもであっては飽きてくる。
 悲劇には自分自身さえ最悪の状況でなければ、適度に自分自身の人生の中にあった挫折に対する記憶と、そこから得た教訓を思い出すことも出来るし、自分自身の人生がドラマ化され得ぬある種の余りにもドラマにならなさ自体を承知で、ドラマになる悲劇自体へ価値的に我々の心は称揚する。ドラマとは全ての人達からの憧れ、美しき人生に於いて、その心の純粋さ故に滅ぶという運命の過酷さに、やがて来る私達自身の死という運命自体への予感と、その予感を常にどこかでは忘れ去ろうとしている楽観主義に於いて、自分自身の代わりにドラマの中で美的に生き抜き、美的に滅んで欲しいという欲求なのである。それを見たいという欲求なのだ。
 それは端的に私達自身が自らの死に対し怯え、只管美しく生きることを通して様々な軋轢の中で押し潰されることを未然に阻止し、出来る限り巧く衝突を避けて生きている自分自身を美しいと感じないということをも知っているからである。
 もっと簡単に言えば人は皆、自分自身は美しくあることより、衝突を避け、巧く余り辛くはない人生を送りたいが、純粋に生き、様々な衝突と軋轢の中で打ち滅ぼされていく美しき者の姿に対して一定の敬意と尊崇の気持ちだけは持っていて、理解出来るからである。
 だからそういった偶像を歴史上の悲劇的人物や、それらをベースに作られた戯曲や小説、映画のヒーローやヒロインの存在によって充足させているのである。
 自分自身は小狡く、円滑に仕事や地域社会での安定した生活を守る様に、周囲に美しさを引き受けてくれる他者に、あらゆる正義や倫理的信念を責任転嫁することを通して、自分自身は過大な責任を負わされるストレスを極力回避すること自体が一般的な人生の生き方である。
 つまり我々はその範囲内で楽しみとか、息抜きとか、人生を豊かにする仕事の遣り甲斐とか幸福感を獲得しているのであり、主義や信条、理念だけに殉じるという生き方自体は、仮にそういう態度で生きている人があったとしても、大半はお門違いか勘違いで、依怙地でそういうスタンスを貫いているに過ぎない。
 人間は何より自分が信じて疑わないドグマの信者である。ドグマとは仮にどんなに崇高なことを言っても宗教心と何ら変わりないものである。だからこそ逆にドラマの中では理想系としての美しさを表現されることを望み、それも又一つの創作上のドグマであることを知りながら、潜在的には自分自身の人生も又どこかではドグマに支配されているという直観を必ず介在させて生活しているので、「そうではない美しさ」をイデアの様にドラマの中に封じ込められていることを期待し、その者が美しく死ぬとまるで自分自身にも僅かながらもそういう美しさを履行し得る可能性が残されているのではないか、という気持ちを起こさせるのだ。
 人間にとって歴史とは一つのフィクションの様なものでもある。何故なら既に過去は現在には存在しないからである。現在に存在しないものは如何にリアリティのあることとして過去に自分自身で体験されたことでさえ、どこか空ろな感じを我々は抱く。
 ということは我々は常に記憶と知識と経験の上で膨大なフィクションを心に保有して現在を生きていることとなる。生きることは記憶を頼りに現在を現在として認識し、未来へ向かってその不確実性の中から何かを掴み取ろうとする躍起な心との共存である。
 感動はそういった小説世界、戯曲世界、映画世界といった虚構自体が、実際にあった出来事自体すら虚構化されつつある時間の中で一瞬出来事とか人間の心の動きの有り様に対する価値として受け止めておきたい気持ちが誘引する「閉じ込め」作用である。
 どんどん虚構化していってしまう実際にあったこと、経験したこと、記憶の中だけにある自分自身の過去のことを、やがて死んでいくことを知っている主体が「自分自身の人生、それは感動的な事実であった」と思いたい気持ちが、同じ様な気持ちを持って存在していたとされる歴史上、創作上の人物の美しい行為に対する共感することこそ感動の正体であり、「自分自身も本質はそうであるのに、実際には様々な社会的軋轢によってそれを実現し得ぬままでいるのだ」という事の自己弁解と、それでも尚悲劇的主人公の姿に感動出来る自分の理解能力自体への確認によって安堵を得ることこそが、感動という心の作用の本質的構造であると言えないだろうか?

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