Wednesday, August 25, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 二十八章 テクスト主義とモティヴェーション主義

 構造主義では我々はシニフィエとシニフィアンという区分けをかなり流用した。これはソシュール起源の考えをヤコブソンが発展させて完成させたものである。シニフィエは意味内容、シニフィアンは意味作用とされた。
 現代で最もこの考えに基づいているのは批評界かも知れない。批評言語とはメタ言語を一番理解しやすいものであるとも言える。小説や詩に対する批評が、言葉自体への言葉による解釈という形を取るからだ。
 分析哲学では大半の論客が意味作用としての解釈をモットーとしている。つまりあるテクストは書かれた背景とか書いた人の内的動機がどうであれ、結果として示された言語自体の主張や、言語全体の持つ意味作用的可能性を重視するという意味で、それを仮にテクスト主義と呼ぼう。それに対し、あくまでどういう動機で書かれたか、どういう時代的背景で書かれたかということを重視する考えをモティヴェーション主義と呼ぼう。
 テクスト主義は文学批評でも分析哲学でも科学主義に根差している。それに対しモティヴェーション主義は書いた人の心の事情とか、様々な内的、個人的理由を重視するわけだから、人道主義的であると言えよう。
 しかし私は完全にテクスト主義者である。
 何故ならある書かれた言葉群とは、あくまで作者、筆者の意図とか思惑を遥かに超えて普遍的価値になることは必然であるし、又そうであるべきだと考えるからである。
 このことを私は「言葉の運命」と捉えている。
 だから本章は前章の否定ということに就いて考えた第一弾から継続された内容であると考えてもいい(前章のPart2は時間をかけて本論の結論へと持っていこうと思う)。
 言葉とは本来それを発する、或いは記す人の脳内に浮かんだ想念に形を与えたものである。しかしそれは一旦発話されたり、記述されたりすると、明らかに外部に出力され、「言葉」自体として独立して作用する。それをシニフィアン的位相から考えてもいいし、社会性と捉えてもいいが、要するに発した人内部の事情がどうであるかということや、書いた人内部の思惑がどうであるかということとは別箇に、それ自体として認識され、独立した意味を与えられる(その言葉を受け取る全ての人によって)ということが「言葉の運命」であると考えているのである。
 意味とは何らかの意味を伝えたいと欲する人の脳内に留まっている内は、意味作用しているわけではないが、一旦それが発話とか記述に於いて実現されると、それを聴く人、それを見る人から意味を与えられ、意味作用という社会的現象を引き起こす。
 従って歴史哲学的に解釈すれば、カントが書いた論文は、それ自体カントの内心の思惑とか書いた動機以上に、そのテクストがどう読まれるか、つまり筆者の意図とは別箇の社会性を帯びた現象的一例として例えば「純粋理性批判」が解釈され得る対象となるし、その受け取られ方自体が「純粋理性批判」の齎す後代への波及力となり、その受け取られ方の方をこそ、我々はその当もテクストを通したカントの意図と受け取るのだ。従ってカントがそれを書いた時点での思惑からは大分ずれ込んでいるということは当然あり得ることである。にも拘らず私はカント自身の内部の意図や思惑、書いた動機などよりもそちらの方を優先すべきである、と考えるのである。
 つまりそれこそ言葉自体が自立し、独立した価値と力があるという考えに拠るものなのである。
 何故私がモティヴェーション主義を排するかというと、それはモティヴェーションを他人である我々が読み取るという行為的意図にある不純さを感じるからである。つまり我々はそれほど他人のことを理解出来る筈がないからである。しかしその立場を重視する人達はあたかも自分達だけがそれをよく理解し得ると考えているが、よく考えてみると、彼等も又「本当はカントが考えていた事は~だった」と書かれたテクストとか、カント自身が著したテクストの文面からそう受け取っているという事実を忘れている。
 従って他人の心をまさに自分自身だけが理解出来る自分の内心の様に理解出来ない以上、テクスト主義しか成立し得ないということこそ科学的客観主義であると私は考える。
 では科学的客観主義は万能かという意見がモティヴェーション主義から提出され得よう。つまり客観的な分析ではなく直観的な理解だってあるのだ、と言う風に。しかしそれは違う。何故なら分析とはそもそも直観に根差すからである。そのことをモティヴェーション主義は見落としている。私達は直観自体を全く分析を通さずに信じるということにある危惧を感じなければならないと私は考える。
 それほど我々は我々自身の理性を信じてはいけない。人間はその日その時の気分でかなり縦横無尽に恣意的な解釈を施すものなのだ。つまりだからこそ「言葉の運命」を真摯に受け取るなら、我々は仮に内心では大した志を持たないふと思いついた一言であっても、それがいい意味作用を呼び起こすものをこそ重視すべきなのである。どんなに真摯にモティヴェーションを持っていたとしても、それが心無く他者を不快にしたり傷つけたりする言葉を我々は歓迎するだろうか?
 そこがまさに責任倫理的な考えを重視するか、心情倫理的な考えを重視するかの境目である。
 カントは確かに心情倫理的に根本悪とかそういう内心の動機に根差した善意志を重視した。しかしそれはあくまで内心の動機や言葉を産出する心の在り方自体が、言葉へと転用される段に反映してしまうということを彼が熟知していたからではないだろうか?
 このことの結論は保留にするが、責任倫理をカントが少なくとも無視して哲学書を書いた様に私には思えないのである。そしてそれは勿論私がカントテクストに接して読んできた(専門的に熟読してきたわけではないにせよ)得た解釈である。その意味では私も又テクストを通してしか当然カントを理解することは出来ない。
 結果主義とテクスト主義は微妙に違う様に私には思える。結果さえよければ何をしてもいいという考えと、発せられた、記された言葉の意味の可能性を重視しようという考えとは根本的に私には違うものであると思う。
 何故なら本章で述べてきた後者は責任倫理的であるが、前者は歪な功利的思惑だけが見透かされる心情倫理である様に思われるからである。
 ここにテクスト主義から考えてきた「言葉の運命」が深く社会性、つまり倫理の問題に抵触しているということが明白化したのではないだろうか?
 次回は言葉の持つ倫理性に就いて問おうと思う。

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