Monday, August 2, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十七章 否定という態度をどう捉えるべきか?Part1

 昨今脳科学分野に於いて神経経済学など新奇な潮流学問も導入され、次第に以前羽振りよかった社会生物学や進化心理学が片隅に追い遣られて来ている。しかし別に神経心理学が進化しても必ずしも進化心理学や社会生物学が全て無価値になった訳ではない。認知科学が現象学のメソッドを今でも場合に因っては流用する様に、全て利用価値はある。全否定も全肯定も安易な背理論へ赴かせるだけだ。集団遺伝学的からだけじゃなく古生物学、解剖学から見たっていいわけだし。
 しかし潮流というもの自体は絶えずその流派を作ろうと画策するその時代毎に存在する一群の人々の政略的思惑があるから、そんなに簡単に全ての分野の考え方を並列的に辞書の様に利用価値あるものとしてストックしておけばよい、という風に巧くはいかないものらしい。
 だがその様な学問間の思惑に於いて各該当者達自身が相変わらず援用してきた一つの態度がある。それが否定だ。
 否定とは断固たる意志とスタンスを示す為に必要な態度である。
 だが面白いことに文面上では肯定と否定は只単にある命題「AはBである」を、それに並列的に「AはBではない」という形で二値論理的に配分するだけである。それは論理値としての認識上でに浮上する秩序でしかない。
 つまりだからこそその秩序に於いて否定を採用する時には、肯定を採用する時以上に内的感情が露にされるとも言い得る。
 入学試験、入社試験に於いては採点基準が既に学校や大学側、会社側などにあって、それに随順する形で機械的に処理されていくことが多いだろう(又そうでなければ公平ではない)が、学界的現実、社内通達的現実に於いて、学者、ビジネスマンに関わらず否定とは、否定的通達を申告すべき相手に対する通達者の感情が最も露になっているとも言える。
 だからこそ肯定と否定の二分しかないという現実に於いて、本当は否定したくはないのに責任上否定せざるを得ない場合や、本当は肯定したくはないのに肯定せざるを得ない場合が必ず状況としては付帯する。そこに逡巡や躊躇を持った決定というものが登場してくる余地がある。
 又それは些細な日常会話でも散見される。
 例えば相手の言いたいことを理解し得る場合は、感情的には相手の言いたいことに同意したい気持ちがあっても、責任上それをすることが憚られるという様な場合、肯定したいのに否定せざるを得ない場合が出てくる。
 逆に慣習上どうしても社会的地位的にある人が否定しなければいけない圧力がかかっている様な場合、その慣習自体を悪習として拒否発動することには勇気が要るし、その場合に相手を否定せず肯定する場合、肯定に纏わる意志決定に介在する否定決定への逡巡が重要な動因となる。その場合不正が蔓延っているような状況下相手を慣例上では肯定しなければまずい雰囲気の中で相手を否定すべき場合(見過ごせない場合)、否定に纏わる意志決定に介在する肯定決定への逡巡が介在することとなろう。
 もしそういった複雑な心的過程を通過した上で意志決定されている様な場合の脳内作用が脳神経学的に鮮明になれば、必然的に唯認知メカニズムの論理至上性への否定乃至批判的データが産出され得る可能性はある。それは情動が論理的に明示可能となることに他ならない。そうするには、対論理自体への拒否反応自体を論理的に明示する必要がある。
 要するに否定を只単に認知事項としてではなく、情動反応的態度的構えとして立証する必要があるのである。
 肯定と否定に纏わる論理決定性とはそれ自体言語ゲーム的制度への加担と依拠がその本質にある。肯定命題に於いて我々は言語ゲームへの信頼を絶対化している。それに対し否定命題に於いて我々は言語ゲームに依拠しているものの絶対化してはいない。それは相対理解誘引的明示だ。ここに重要な論点がある。
 つまり会議でも何でも相互の意見交換に於いて意思疎通的意味合いでも、同意出来る意見が提出され続けている間は和やかであり、一つの内閉的空間内でも各成員毎の言語ゲーム自体への参加意義も、意見交換自体の存在理由的認識でも相互に会議開催自体へ絶対的信頼が保たれる。しかしそういう場合よりは、多くは途中で意見の食い違いが顕在化したり、議事進行上で何らかのトラブルに遭遇する。それこそある意見に対する否定的見解の登場によって、和やかさは一気に緊張感に包まれ、相互理解は前提されていなかった旨が全参加者間で明白となる。そうなると今度は相互理解を最初から対立軸自体の明確化をする中で誘引する様に各参加者が明示していく必要性に迫られる。
 共感、賛同、賞賛には端的にその意見なり何なりに一定の加担自体へ逡巡や躊躇は一切ない。しかし否定に於いてある意見や命題的正当性への見解に於いて否定的関係を示すことには、その正否自体を問われること、つまり自ら回答者として問われている状況自体への賛同ということに於いてのみ参加意義を認めているわけだから、必然的に依拠的である。
 だからこそ肯定は加担的であり、否定は依拠的であるというのが心的実相なのである。つまり依拠には固有の「致し方なさ」があるのである。
 拠って結論的には加担と依拠を論理的に明示し得れば、唯論理ゲームの不毛を摘発することが哲学的に可能となる。それは言い換えれば肯定と否定の非対称性の明示なのである。
 唯論理ゲーム自体の不毛性を摘発し、それを無効化へと追い込む為に必要とされるものとは、端的に非対称性が明らかに介在し、積極肯定と消極肯定の差異と相同のメカニズムがあることを証明すればよい。
 我々が何かを肯定する時明らかに否定に対する逡巡は微細だ。何故ならそういう発想自体が余り思い浮かばぬ故だ。が否定する時には明らかに肯定に対する逡巡は切実だ。それは肯定したくはないという欲求に拠って成立する命題だ。この非対称性、差異こそが論理的二値性への懐疑を招聘し得るかも知れない。
 逆に肯定に於ける否定に対する逡巡は誰か特定の存在者から反論された時のみである。否定する者さえ不在であれば我々は肯定に否定への逡巡(反論されれば躍起だが)をする必要はない。ここに言語ゲームの存在者間応対状況依拠性がある。メタレヴェルでの言語ゲームの発生根拠である。そこにキーがあるのだ。
 要するに肯定は論理空間的信頼と認知信念的だけど、否定は情動的なのだ。それを論理的に明示出来れば、かなり面白い二値論理的論理至上主義批判論が書ける。

まず単純に我々は次の図式を描くことが可能だ。

①Positive Affirmation→②Negative Affirmation→③Negative Negation→④Positive Negationこの段階論的な過程が心的には存在する。肯定と否定の二分法に収まらぬ。しかも②は強制された同意、③は強制された禁止だ。

しかし一方それは只否定感情へと肯定感情から至る強弱に対する段階論的認識に過ぎず、本質的心的理由が無視されている故、次の図式を思い描くことを可能とする。

①Positive Affirmation→②Negative Affirmation→③Negative Negation→④Positive Negationとしたが、様相的には①→③/④→②という経路も考えられる。要するに最初は正直な気持ち、後で強制が入るという事だ。それは外圧的屈服である。

 次回はこの外圧的屈服ということの心的過程とその根拠について考えたい。 

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