Sunday, August 7, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第六十四章 後戻り出来ない「いい意味で自閉的な」ナルシシズムの時代

 先日の日曜日のとある民放の情報番組に都知事の石原慎太郎氏と数学者の藤原正彦氏がゲスト対談で出演して色々な現状の日本に対する憂いを表明した。
 そこで石原氏が例によって「日本人が我欲に支配された」発言を繰り返した。
 その点では私にも同意し得る部分はあって、例えば竹島などの領土問題(最近では日本人自民党議員がウルルン島入島拒否されたことが記憶の新しい)では韓国サイドにすっかり領土を占領され、気象観測台、警察迄建造されてしまっている。これは一重に戦後の全総理大臣の責任である。このままだと尖閣列島から北方領土に至る迄全て未解決のまま永久に我々日本人は領土を失ったままでいることだろう。これは戦後日本人による平和教条主義のつけである。日教組的倫理観が外交や国防的観念をなし崩し的に駄目にしてしまったのである。

 しかし石原氏が日頃からよく発言している「日本人を駄目にしたもの、テレビ、パソコン、携帯」という三種の神器はテレビに関しては、それなくして石原氏が四回も都知事に当選することなどなかったろうに、と矛盾を禁じ得ないということと、後者二つも決して日本人から無くなるということなどないだろう、ということを感じざるを得ない。
 パナソニック、ソニー、東芝全社とも今年に入ってからずっとテレビの売れ行きは不調である。恐らく今後テレビが購買数を企業が回復されることはそうないだろう。つまり石原氏の日頃述べている第一の日本人を駄目にしてしまったテレビという代物は既に過去の遺物と化しているのである。
 第一にテレビに登場する人達(アナウンサーからコメンテーター、批評家、文化人全般)が既に世間一般で認定されている信用すべき存在というレッテル自体が鍍金を剥がされつつある。つまり現代人は「権威ある誰か」によって信用すべき存在を知りたいという欲求自体が希薄化している。つまりそれは自分で選びたいという欲求へと既に大分前から以降しているのだ。
 それを可能化させるものとして既にPC端末と携帯端末が利用されているのだ。

 テレビに登場する人達は既にそういった自分の考えで検索して認知したい世界の全ての中から自分の判断で選びたい欲求を殺ぐ、余分なものとなってしまっているのだ。テレビによる権威を象徴するものの一つは明らかに今迄は民放のCFであった。しかし現在各企業はテレビによる宣伝よりよりウェブサイト上にそれを求めている。しかも映像という瞬時に情報が消えてなくなるものと違ってウェブでは何時でも自由に検索出来る。その点でもスポンサーが民放につくということ自体が極めて現在では各放送局に於いて熾烈になってきているのだ。
 このままいけば遠からずテレビ局は倒産するだろう。つまりそうならない為に必死に生き残りを賭けて戦略を練っているのがテレビ局の現状である。しかしそれも時間の問題であると思われる。テレビが生き残る為には外部からの送受信を実際の番組内でもっと自由化するしかない。そしてそれを可能化する為には中央放送局の息のかかっていない地方独自のケーブルテレビ的システムに全面移行せざるを得ない。

 それから石原氏の負の三種の神器であるPCは絶対になくならない。既に日本人全員といっていい程の人達が自ら所有するPCから情報を発信している。その様に主体的に社会と関係を持とうという欲求を押し留めることは出来ない。つまりその部分では自己主張を文字入力によるメッセージによって執り行うという行為自体に内在するナルシシズムに一度開眼した人類は、それを元に戻すことは出来ないのである。
 これは世界的規模で見ても、エジプトやチュニジアの政変を実現した人民のパワーに於いてあらゆるウェブサイトツールの果たした役割を考えても極自然な流れである。
 日本のみならず世界的規模での政治家への尊敬心の後退という現象を促進しているものがウェブサイトであることだけは間違いない。今後益々政治家達はよりウェブサイト上で好感をもって存在自体が迎えられる為によりウェブサイト上の意見を重視する様になっていかざるを得ない。

 ウェブサイト上でのメッセージに対する反応は何と言っても速い。これだけはもう押し留める事が絶対不可能である。勿論デマも速く伝わるという弱点もウェブサイトは持っている。しかしそれでも尚その弱点を大きく利点が上回っている。又災害時での情報メッセージに関してもテレビよりウェブサイトが勝っている。
 従ってテレビに頻繁に登場する人達は、既にウェブサイト上での世界市民的オピニオンを反映せざるを得ない狂言回し的ロールに後退しているし、当の石原氏自身がご自分に対してよくそう自覚しておられるだろう。
 世の中には人前で何かを話すことを不得意とする成員は大勢いる。それはあらゆるタイプの引き篭もりに於いてそうである。しかし恐らく太古から知性ある成員は皆そうであった筈だ。つまりあらゆる偉大な思想・哲学・文学等はそういった人前で語れない人達(まさにローマ時代のキケロの様な存在を最後に)によって育まれてきたのだ。
 しかしニーチェが僅かな自分の収入の全てを自費出版に注ぎ込んだ時代と違って現代ではPC端末さえ所有しておれば、誰しも瞬時に情報メッセージを送信することが可能となっている。従って石原氏的「正々堂々と自らの意見を言え」的メッセージが時代の趨勢になることは最早ないのだ。

 現代に固有の発信者(メッセンジャー)としてのナルシシズムはよりいい意味で自閉的である。
 例えばある人(存在者)が生きて生活していた空間はその者の死去に伴って徐々に生きていた時間が空間に与えていた影響力を退化させていく。それは長年使い慣れたある人の眼鏡が持ち主の死去に伴って生きて生活している人間の身体的律動からの影響を剥奪されて只の物となっていく過程自体を顧みれば必然である。私が死ぬ日迄使っているPCは私の死後徐々に私によって使われていたという痕跡を消し去っていくだろう。その冷厳な事実は実は、全ての存在者の平均寿命を全うすることを前提に言えば七十年以上の日々、全存在者が幼児期の思い出をも携えて、しかしある日忽然とそれ等全記憶を死をもって失う。しかしその瞬間迄全存在者の現象的な世界は只の一人、その身体の所有者以外からは推し量れない。つまりその事実に於いて全哲学の中で独在論ほど説得力あるものはない。独我論的世界から我々は全メッセージを発信しているのだ、という事実に覚醒せぬ存在者を成立させない時代に我々は生きている。それはいい意味で既に自閉的な意味でしか我々全個が自己に固有の価値観を見出せない、ということを意味する。

 我々は全て自閉的価値への注視者であらざるを得ないのだ。その自閉性に裏打ちされた固有のナルシシズムは全てのextrovertな対外的戦略や、外交的手腕、或いは社交辞令といった全てを益々形骸的な社会内に残存する尾骶骨的存在へと我々に認識させざるを得ない。

 先日の民放番組のもう一人のゲスト論客である藤原氏による「日本人は自らの歴史の素晴らしい側面だけを伝えないでネガティヴな要素ばかり見る」という意見も当たらない。何故なら我々一人一人の市民全員が日本語で発信する意欲と意志にとりつかれている限り、日本語自体も、より特権化された一部のエリートやインテリによって言葉が運用されるという現実を完全に打ち崩しているではないか!既にエリート階級やらインテリ階級自身が全員ウェブサイト上での匿名記述者をも含めた全メッセンジャーの意見の動向の方を手本としている(あらゆるジャーゴンからタームに至る迄)のである。
 我々は既に言葉や言葉によって語られる歴史自体が一部特権的カリスマによってのみ全市民へと浸透していくという社会運営、国家運営の幻想からすっかり離脱してしまっている。歴史は私達一人一人の市民のある部分ではマスコミ(それは最早一部の声でしかないのだが)を規準にすれば、まさに無言の声によってのみ作られていくという事、つまりお上から有り難く頂戴するものでは決してない、ということに覚醒していないメッセンジャーは一人もいない、そういう時代の住人なのである。

No comments:

Post a Comment