Wednesday, August 17, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第六十七章 死の突発性と安穏とした日常での死事実に対する忘却

 第六十三章で述べた死事実に対する忘却は他者の死の悲惨、突発的な予測不可能性によって逆に支えられている。
 
 今日もニュースで静岡県浜松市天竜川下りの船が転覆して七十代女性と六十代女性二人が死亡、そして八十代男性、船頭の人、そして二歳の少年が行方不明であることが報じられた。しかし我々はこういった突発的事故(事故とは常に突発的である)の前でそれが台風の時であるとか激流の時ではないにも関わらずほんの偶然的な事態の到来によって突然命を奪われる方もいると感慨に耽る。

 しかし実はそういった突発的な他者の死を確認することが出来るという事実への自覚、認識、認知自体が我々自身がこちら側で生きて生活していけている、と実感させ、そのことによって死事実が自分にも遠からず必ず到来すると知っていて、それを忘れようとしている。
 つまりそうやって死を受け入れる準備をせずに、自分自身が生きているという事実の方を寧ろ大きく意識に介在させることで、却って自分自身の死さえ突発的である様な最期を招聘することとなっているのだ。死んでみて生きてきた間の出来事全部が実は夢であったという胡蝶の夢の様な説話を生み出す背景はその死事実の忘却に安穏と乗っかって、そこに出来るだけ疑問を抱かない様に心がけているという我々の日常的行為事実があるのである。

 夢を見ると必ず知人も登場する。しかし印象に残ったテレビの画面を通して観た人物も登場するし、かつてお世話になった人、そして最近知り合った人とかが同じ状況で登場する。彼等には個々は全く何の関係もないにも関わらず「私」の記憶と私の認知によって彼等が私の脳裏では同一地平上の存在なのである。
 だから覚醒していて日常的に仕事をしたり食事をしたりする場面での生の時間だけが「本当の時間」であり、睡眠していて見る夢の時間が虚の時間であるとも言い切れないのだ。つまり実はそちらの方こそが「本当」の「私」の時間であり、そういった眠っている間に見た夢のことなど露ほども他者には気づかれぬ様に済ました顔をしている時間こそが虚であるとも言える。
 すると哲学的独我論、独在論にも俄然説得力が出て来る。つまり夢は必ずしも突発的ではないのだ。只死のみ突発的なのだ。そして生の中で挿入された死は意識を失っている睡眠の時間である。夢も見ていないノンレム睡眠時間である。
 夢は何処かで前に観た夢の記憶も脳に残存しているから、関連性があるし、繋がりも必ずあるのだ。しかし覚醒時の日常の方が必ずしもそうではない。寧ろ仕事とか会う顔それぞれに違う対応をしている時間の我々は却って全て虚的な心理で通している。そこには純粋に我である必要すらない。だから案外死事実への忘却を作っているものは覚醒時の会社や通勤電車の中での私達の方ではなく、各自睡眠時に見る夢の中の私達なのかも知れないのである。
 つまり意識を失っていても尚何らかの内容が夢の中で展開されることをもって、我々は却って死から遠いと自らに言い聞かせられるのだ。しかし通勤電車や会社で見せる公の態度を取る時間の方の私達は却って死に慣れてしまっている。本音を只管隠蔽することだけを心がけている(それが全く出来なくなった時かなり深刻な精神状態であるとは言える)。

 だから生とは死に慣れることをもって、公の職務や顔を維持することを社会が我々に強制し、しかし睡眠時にのみ我々は我々を我々自身の公の姿を作っている意識から解放させるのだ。又そうすることによって実は生がある日突発的に消滅する死の突発性自体の避けられなさに対して、その恐怖を紛らわさせ、要するに死事実を忘却出来なさを実感しているのだ(その証拠に夢を見ている時の半意識の方がずっと死への恐怖を強く私は感じる)。つまり夢とは生への未練が見させているとも言えるのである。

 私達が生きている間に経験する実際の死は全て他者の死である。人事なのである。否そうであるしかあり得ないのだ。自分の死はある日当然向こうからやってくるが故に、避けられない事態であるし、又その時期が何時であるかを我々は予測出来ないのである。
 だからこそ他者の死を沢山認知することでその恐怖から逃れているのだ。

 確かに東日本大震災に於ける死者の数はトータルなものではなく、一個一個の死自体は数えられないものであるという謂いは既に言い古されている。誰しもが悲惨な大事故や大災害の時に使う。しかしそれはそう言いながら実感からはやはり遠い。何故なら全て他者の死に就いてだからである。
 実は自己の死とは恐らく生きている間に感じる、生きているが故に恐怖する死への感じとは違うものだろう。全ての生きているのに必要な力が失われることなのだから。それは恐怖とか未練とかそのものを一切必要としない何かもっと全く別の事態なのである。

 だから寧ろ他者の死はそれがとりわけ自分の生活に密着している他者の死であるなら、それ迄ずっとその者と共に過ごしてきた生の中の時間が失われていってしまい、その時間の追憶を出来るのがその者との間でのことに限って完全に自分以外誰もいない、ということから、やはりそれはある自分自身にとってかけがえのない「ある自分」つまりその他者にだけ示していた自分の死以外ではないのだ。このことは別ブログ(このBlogger)「死者/記憶/責任」で既に述べたことである。
 しかしこれは常に別の形で述べ続ける必要を感じることなのである。つまり他者の死とはそれ自体その他者が生きていた時間を自分が知っていて、共有していたという事実に対する認知なのであり、その時間の共有者の死とはある意味でその時間を共有してきた自分の名実共に消滅する事実への覚知なのだ。それは只単に自分も何時か同じ様に去っていかねばならない、ということだけではない。
 寧ろ死ぬ瞬間迄ずっとその共有した事実を忘れずに生きていくことに対する予想から生まれる途方もない憔悴感を含んだ行く末の不安以外ではないのだ。それは親しかった者との間で特にそうなのである。

 だから逆に全く見ず知らずの人の死とはそれ自体どんなに美辞麗句で「一個の死は数ではない」と言っても、その言説吐露事実自体が既に欺瞞的な彩りを隠せないのだ。何故ならそれはやはり歴然と知らない人の死であるからである。だから本当に切実な自分が愛する者の死を経験した者は死者の数を数えるという行為自体の批判的言説として「一個の死とは数ではない」などとは言わないに違いない(勿論人によるということは言えるのだが、一々他者の言説へ批判を加えることはある程度切実な死別へ遠いということを意味する場合は多い筈だ)。

 つまり親しい者、愛する者との死別は全く違う次元の問題であればこそ、逆に他者の死はやはり見ず知らずであれば数えられてしまうのだし、これは残酷であるが我々の生きているという事実に於ける真実である。

 又死んだことで救われる生もあり得るということを我々は驚くほど問わない。勿論突発的な事故によって命を奪われる場合はそうではない場合も多いだろう。しかし生きていれば全て幸福であるという観念自体は全く無反省的な認識でしかない。
 他者の死という事実に対する安穏とした一々憔悴しなさこそが、逆にいざという時自分にとって切実な他者や愛する家族の死に対して毅然としていられる様にするのだ。そしてこれは死事実に対する慣れを何処かで受け入れていくという無意識の決意である。
 それは死を異様に悪と決めつけることで喪失する生への未練の過剰自体から解放されるという認識に対する見直しに他ならない。
 死は歓迎的な事実ではない。しかしでは生が必ず歓迎すべき事実でしかあり得ない、と誰が明言出来るのだろうか?
 我々はその意外と重要な問いには常に眼を塞ぎ耳を塞いできたのである。

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