Wednesday, August 17, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第六十八章 死の突発性と安穏とした日常での死事実に対する忘却Part2

 前回のことを踏まえて纏めてみると、我々は死者に対して絶対的他者として生者と区別し、端的に死者を差別することによって逆に生の事実を辛うじて実感している。つまりそれだけ生は生き生きとしたものでは既になくなっている。死者を出した悲惨な事故や災害を報道することによって、それを視聴する側の全ての生者が未だ自分達は死んでいないという事実を改めて自覚することを促す装置としてマスコミ、マスメディアは存在する。

 しかしその事は一方では死事実に向き合わず、生を「死ではない」という形でしか単純に理解出来ないという我々の惰性的思考傾向に対する無反省性を際立たす。要するに我々は死者に対して気の毒と思い、死者の死事実を報道し、弔う。しかしそうしながら、ではそれに比べ我々の生がどれだけ有意義で、又存在理由からして死ではないということの感謝や生存の価値を見出しているかというと心もとない。つまり我々はある部分では用意周到に死事実に意識の上で向き合わず、真摯に問うことを拒否しているが故に、却って死者に対する憐憫を持つ様に馴らされているのだ。我々は生が死より一層価値と光を放っているということを確証出来ないが故に、却って死者に対する挽歌と憐憫を積極的に行い、死を遠い事実として思考の上から出来る限り葬り去ろうとしているのだ。

 我々は死者を我々とは遠い別の絶対的他者であると見做すことによってのみ、生を輝かしいものとして自覚出来るのであり、それは即ち生に対する絶対的肯定とか絶対的死に対する優位を確証しているのとは違うのである。つまり生の意味と理由、根拠を我々は誰も実は理解していないし、それを他者に説明することも出来はしないのである。
 だからこそ絶対的他者は自己の中に巣食ってもいるのである。つまり自己の中の絶対的他者こそが、生を闇雲に輝かしい、生まれてきてよかったと思い込み、死を忌避すべき事実として葬り去っているだけなのである。
 ではその絶対的他者とは一体なのだろうか?


 それは端的に私が一人で生きているのではない、という外部から押し着せられる一つの事実への認知である。
 社会は確かに一人で生きているわけではない。途方もなく大勢の数え切れない人達が犇き合って生活している。その中の一個の個人であるという意識を介在させずに社会と関わり生活している者はいない。つまりその事実、そして誰しもがそうである中のたった一人の自分という意識こそが自己内に巣食っている絶対的他者なのであり、それが自己を監視しもするのである。
 モラルも反モラルも、常識も伝統も通念も世間知も全て言語習得以降の慣習的、習慣的な事実であり、それは言語的思惟や言語共同体成員として同化せざるを得ない形で我々は自己行為を考える。その考え自体を支えるものとして私は絶対的他者を自己内に設定したのである。

 これは見えない形で自己行動を縛り、他者への眼差しを注がせる。だから或いはこの絶対的他者こそが我々に「取り敢えず」生は死より尊く価値があり、死んだ方がいいという想念を生の価値の前では邪念にしているのである。
 人類以外で弔いの習慣を持つ者は哺乳類ではゾウであると言われる。或いはイルカ辺りもその様な習慣があるかも知れない。そしてネアンデルタレンシスはそういった習慣があったればこそ我々と同じ人類の一部として理解されてきたし、最近では彼等と我々とは異なった種であると完全には言い切れないことも報告されている。DNA解析レヴェルでもそうであると言われてきている。
 デネットが「解明される意識」でも「解明される宗教」でも葬儀と埋葬の習慣を我々が持つことを、他者に対する慈しみ自体が、自己の身体が死して後邪険に扱われたくはないというある部分では自己本位の感情がそうさせている、という見解はロバート・トリヴァースによる戦略的互恵的利他主義の理念からも大いに啓発されているところはある。しかしやはり哲学者としてのデネットはそれだけでなく、イコンとしての身体、我々の生きた肉体という発想を持っているのだろうと思う。
 デネットに葬儀と埋葬の習慣を持たせるものとして絶対的他者を考えることは出来る。それは死者が絶対的他者であることが、実は死して生きているのではない魂となっている状態に対する無条件の尊崇の念が逆に自己内の自己に対して取らせる他者や社会全般への態度や行為を規定する価値的、モラル論的正義論的水準の尺度こそ絶対的他者であるとすれば、それは集団的和合、集団的同意という事実への無視出来なさ、というもの以外ではないだろう。
 それはだから却って完全なるアウトロー的生活を余儀なくされている成員にこそ切実に自覚されることでもあるのだ。例えば日本人は世界の民族の中では明かにそういった要素がある。

 或いはそうなっていかざるを得なさから、そうなっていきたくはないという願望の全てがこの自己内第三者的視点の不可避的導入とも言える絶対的他者の巣食わせに由来していると言える。
 だからこの絶対的他者的意識水準を維持しているという自覚がある限り、我々は何処かでは自分の死後も弔って貰いたいし、貰えるだろうという目算に於いてのみ、社会成員として他者を死を無碍にすることは出来ないと心に留め置いているのだ。
 死者が絶対的他者であるのは、如何なる成員であっても、死して生者全体から離脱することで、生前如何にエゴイスティックであった様な成員さえ生者を特権化された存在に押し上げることで、しかしそれは儚い夢の様な時間でもあることを承知で、年配者が若輩者を激励し、生の共同体の奉仕することを尊いとすることで成り立つ社会成員全体の有様を何処かでは死者が見守っていると思いたい我々の想念傾向に由来すると言える。

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