Saturday, November 23, 2013

第八十二章 現代人として仮面社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて② 権力保持と一般市民の無意識の生贄見物願望に応えること

 権力という仮面は全てを建前だけで行動するその風情自体への第三者的評定の結集された場であり、建前性自体が本音を集約していると全ての権力の周囲のチェック機関(権力者の取り巻きからマスコミ報道機関に拠って形成されているそれはそれで特権的コミュニティ)に拠って前提され、暗黙の内に権力者の本音を読み取ってやろうと虎視眈々と構えている。従って巧みな為政者とは即ち本音をそう容易に読み取られないということに尽きる。又仮に本音を読み取られても、その本音の様相に怨念的に強烈な意志を読み取られない性格であることがその本音を許容する条件である。
 従って邪心的、毀誉褒貶的に浅ましい戦略を読み取られると、その為政者は突き上げられる。その突き上げは当初は周囲のチェック機関に拠って公表され、次第にマスコミの報道に拠って一般市民に迄周知の事実とされていく。その段になると、一般市民全体が生贄見物をする心理状態を選択する。建前的態度の中に読み取れる本音が邪心とか迎合的な心理が含有されていればいる程、一般市民はそれを看過出来ないという使命感に駆られ、それを代弁する議会に拠って大勢の為政者達は失脚していった。
 本音的感情は誰しも持っているということは誰しもにとっても周知なものとされ、その巧妙なる隠蔽自体が白々しくなく、その仮面ゲーム性の巧みな遂行者こそが歓迎される為政者であり、従ってその者はそれ程変革的な何も履行し得ない。
 にも関わらず人気のある為政者こそが長期政権を保持し得、建前的態度が良好であることの大勢の市民の同意こそが政治を動かす。それは企業の経営者でも事情は同じである。尤も経営者は政治で言えば各政党の指導者なのであり、国家全体の代弁的代表者とは様相が違うとは言い得る。しかし最高権力者(日本で言えば総理大臣、アメリカで言えば大統領)は生贄的に為難い事情がどの国にもあり、不満は政治的混乱へと直結する。そういった混乱さえ生じない場合は社会全体が経済活動的にも政策的理念に関しても停滞するという様相だけが支配する(日本で言えば民主党政権時代に言えることだ)。
 仮面自体が余りにも白々しくその裏では全く異なった本音を保持しているのではないかという直観を抱かしめるある種の不器用な取り繕いこそが為政者へ自らの墓穴を掘らせる。仮面であることは重々承知で、しかしその仮面を脱ぎ捨てたいという欲求を巧く示すもう一つのもっと薄い、しかしそれこそが絶対的に最低限容認し得る仮面という評定を一般市民へ勝ち取る本音ゲームで、それくらいのことなら許せるという人畜無害性を示し得る為政者(例えば小泉純一郎)こそが、その本音と仮面の白々しさのなさに安心を得るという処が一般市民にはあって、そうでない仮面の白々しさと本音の仮面とのギャップを読み取られると忽ち、その為政者は為政責任を問われその糾弾姿勢自体を加速化させるマスコミは、実は暗に一般市民は野次馬的に公開処刑見物を望む心理を擽る様に無意識に機能している。そしてその機能の保持の信念こそが社会正義というやはりもう一つの仮面でもある欺瞞である。
 要するに仮面ゲームと建前表示ゲームとは、ある意味では人畜無害の本音を読み取る為の本音ゲームでもあるのだ。それに不器用な為政者は仮にどんなに内心では純粋な滅私奉公の感情があっても、一切無視され責任というベースでの行動評定だけに量られる、というかなり熾烈な運命が全ての為政者へ突き付けられているが、その運命をノンシャランに笑い飛ばすある部分では鈍感で、ある部分ではウェットな滅私奉公的な純粋さに内心で拘らないクールな認識だけが長期政権と為政者資格として取り敢えず合格ラインだと見倣す一般市民の無意識の生贄見物願望を代弁する機能としてのマスコミはチェック機関の中でも最も一般市民の無意識の残酷さをやはり無意識に熟知していると言ってよい。
 つまり建前表示ゲームでは本音とのギャップを読み取られる語りと所作の不自然さを告発する生贄ゲームを一般市民が個人性とは離れて集団ゲームへ勤しむ自己欺瞞的な本音隠蔽習慣の中で、巧みに泳ぎ切れる権力者、為政者とはギャップを読み取られ難い所作と語りの自然さであり、そのギャップの内容を読取られ難さにこそ、我々が賞賛迄はしないが、取り敢えずこの為政者には信任しておいてよい、という判断を持たせるのだ。
 その意味では本音読み取りゲームでもある建前表示ゲームであるところの政治とは、権力保持というものが、その名目的な厳粛さを信任される者が負担を持たないという嘘でもいいから態度を得たいという信任する側の一般市民の責任転嫁なのであり、それはそうすることで仮に負担を感じる本音的素振りを示す(カメラの前では特に)為政者には不適任という烙印を容易に押させる生贄見物的な野次馬心理こそが一般市民の集団ゲーム的自己欺瞞であるという性悪性を熟知するプレイヤーのみが全うし得る仮面ゲームだ、と言えるだろう。
 権力への信任とは所作と語りの自然さの中で臆病ではない、つまり誠実に自己の弱点を晒さぬ巧みな自己欺瞞(為政者としての厳粛な責任に相応しい)の表示履行者へのみ生贄見物へと移行することはないだろう、という安心を得る一般市民の無責任な責任転嫁のシステムに拠って命脈を維持されている、と言えるのである。

Thursday, October 24, 2013

第八十一章 現代人として仮面社会を生き抜くこと/記述と構えを超えて①

 現代人は少なくとも仕事ではプライヴァシーも素の自分も持てない。要するに個人主義とか個人の自由とか権利とは、あくまでそれを犠牲にしている人達にのみ特権的に付与されるものであり、それは仕事の形態に関わらずそうである。
 ここにものの売り買いに直接関わる人が居る。商社とかギャラリーとかでディーラーとして仕事をする人達は皆あらゆる思想信条の人達と直に接するので、その都度向こうに合わせて会話をして、それぞれの異なった立場を理解しなければならず、その際には自分自身がどういう思想信条であるかは常に二の次にしておかなければいけない。
 又ここで一日中株式とか情報をキャッチすることをして、ネット上だけで全てのコミュニケーションを行うとしよう。すると本当に直に人と会って示す様なメッセージとは24時間無縁で過ごす。この場合でも一切の本音をリア充的な他人に示すことは出来ない。
 共に共通することは、人生の大半の時間を仮面をつけて過ごすということだ。
 そういう社会に生きていて、そういう時代が当たり前であることをまず認めて生活する前段階では、そこに自己という、自分自身という(それ自体も何か固有の幻想に拠って価値的に観念上与えられているだけかも知れない)固有の輝きを失うという形でのみリアルな自分自身の生活を認識していくと、次第に脱力感が充満してきて、一体こういう生活で自分は生涯の大半の時間を過ごすことはいいことなのか、という風に疑問符を抱く様になる。
 しかしそういう風に絶えず真実は今の生活実態とは全く離れた何処か別の場所にあるのだ、と認識すること、そういう風に自分自身の生活習慣を反省的に捉える事自体が、そういう固有の鬱的な不満を生むと薄々誰しも気づいているので、現代人はそういう風に反省的視点で全てを認識することを積極的に避けている、とも言える。
 自分自身の人生自体に一切疑問を抱かぬ様にすることで、却って鬱的でも能天気でもない至極普通の理性を保てるのだ、と信じている人の方が現代社会では多い。第一我々は既に古代にも中世にも近世にも近代にも生活することなど出来ないのだから。
 だから要するに本当の自分とか、真実の人生とかそういう観念自体を、そちらの方こそ幻想として風雪の流布化されていることなのだ、と自己納得しているのが我々の生き方である。
 それは仮面を仮面としてではなく、どの他者にもその固有の他者へ合わせて異なった仮面を着け替えること自体を罪悪視しないという決意だけが至極真っ当な正統な信条であると認識し、決め込まずには現代社会を生き抜くことは出来ない。
 都市空間を移動する際の歩行マナーから公共機関でお金を支払ったり、よく分からないことを部署毎に他人へ質問したりすることに至る迄都市空間全体の秩序を乱さぬマナーの在り方を心得ていくことは、ある部分では地方共同体の人的ネットでさえ、そういった都市空間に固有の機械的な連動を避けて新鮮な空気を胸一杯に吸い込むことを相互に暗黙に確約し合っているという認識に於いてのみ理解出来る、ということだ。
 つまり全ての人生の時間で一人で過ごす時間でもネット上で送受信しているのなら、擬似的に世界全体へ演技して自分を作っている様に、都市空間で無数の他者と直にすれ違っても、2ちゃんねるのスレッドを横目で観てネットサーフィンすることと本質的には変わらず、要するに擬似自分を示す事自体が本当の自分だと認めなくてはならない。
 他者毎に違う仮面を付け替えて態度を替えることだけが特別の権力を持っているわけではない普通の市民の採れる態度であり、それこそが本当の素の自分なのだ。つまり凄く普遍的な仮面も、凄く信じられる素の自分というものも共に幻想でしかないと心得ることだけが現代社会で理性を保つことの出来る指針である、と言ってもよい。
 しかし権力も特権も実はその様相の違いでしかなく、それ自体が権力という仮面であり、その仮面をつけた演技的時間を過ごしているだけなのが権力者である、と言い得るのだが、それは真に権力を保持するとはどういうことか、という問いかけも必要だろう。
 次回は現代社会で権力保持とはどう行われるのか、という視点から考えよう。  
 付記 統一された自己の人格とか揺るぎない信条思想というものの方を寧ろ価値認識論が付与する幻想である、と現代人に気づかせた意味でウェブサイト利用が現代人に齎した精神的インパクトは測り知れない。(Michael Kawaguchi)

Tuesday, April 16, 2013

第八十章 国家主義、領土、面子と自然的隣人関係の乖離/後者を成立させぬものこそ<政治的行動とマスコミの野心=行為のプロパガンダ的性格>その一/記述と構えを超えて①

 国家主義はGNPをGDPにしたところで、或いは更にそれをCDIにしてみたところで一切その性格を変えることはない。要するにそれは国家が一纏まりでなければいけないという一種の面子を各国民が持つ様に強いる幻想以外ではないからだ。
 中央集権的国家主義的理念とは、要するに実利的な各市民の幸福よりも国家全体の面子を重んじる。それはそうだからこそ理念なのである。理念とは管理された秩序のことである。
 だから所詮GDPをGDIと言い換えてみたところで、管理された秩序にだけ執心していればそれでよいという理念が最優先される限りで、それは政治的行動を良しとする管理者側にとって都合のよい論理でしかない。
 愛国心とか郷土愛とはそういった国家主義的管理的側面とは本来別個のものの筈である。しかしマスコミはそうは報じない。事実連日デモが拡大していっても、日中間の連携的なビジネスパートナーシップへと邁進しているビジネスパーソンの方が暴動化しつつあるデモ参加者よりも人員数は多い筈だ。しかし一旦デモが拡大化されるとそちらだけを報道し、日夜日中の貿易に奔走する日本人と中国人の協力的行動は一切報道しないのだ。だから却って火に油を注ぐ結果となっていってしまう。
 国家主義的な管理的理念とは個人の幸福の実感とはかけ離れている。それらは常に論じられるものではない(国民性とか国民感情とか国民の意識は当然の事として論議から常に外される)から却って残される課題として個人につきつけられる。マスコミはマスコミで幸福感に就いて個人にとってそれが最大の価値であろうとも、それを報道することが出来ない。しかし悪辣なのは視聴率で稼ごうとするマスコミに拠るテレビ報道ではその報道されるものとしてチョイスされた事実自体が巨大な幻想を生むという悪質なプロパガンダ性をマスコミ自体がメタ認知し、自省しないという所にある。
 そればかりではない。報道される管理者自身がマスコミのこの無策を利用している(無意識の内に)という事なのだ。日本の管理職層がマスコミ批判をするという事を聴いた事がない。マスコミ批判をするのは主要役職からリタイアした年配者くらいである。この野放図なマスコミの報道の垂れ流しに対する管理者層の無批判性がマスコミ自身を鈍感な垂れ流し報道機関化させている。マスコミ管理職と一般企業管理職が同窓性に於いて無意識に結託して自由な意見を汲み上げる事を澱ませているというのが日本社会の実態ではないだろうか?
 管理者とは常に不穏な空気を呼び覚ますことだけを回避させたいのだ。だからこそある高校の校長が自殺した高校生の両親に対して、不慮の事故死に公ではしてくれないかと打診したりする(兵庫県川西市)のだ。この様な死者の側の感情を敢えて伏そうとする請願をすること自体をさして悪いことではないと思わせてしまうことこそ、管理者固有のエゴイズム以外ではない。
 この高校管理職のエゴイズムと国家指導者層の管理責任に於ける国家帰属意識を最優先させる(かの如く振舞わねば右翼から睨まれることを察知してポーズとして示す)こととは同一構造をしている。
 国家主義とは言ってみれば、全体主義の代弁によって助長されるのである。それが個人の主張であれマスコミの集団的触れ込みであれ、個人の幸福感情より優先されることでヒステリー化する。かつて一時期日本国内を騒がした中国人による日本企業や店舗の襲撃はそのいい例であり、国家自体も国家の側へ不満分子の心理を発火させることを恐れて、日本と関わりある全施設襲撃に関する厳正たる処罰を回避して黙認していた。言わばそれによってガス抜きをして、対国家的不満をこれ以上醸成されない様に祈っているのだ。
 その点では習近平国家主席の今後の手腕に期待したいところであるが、中国は本質的に近代国家としての法整備もなされていないという部分で我々は常に大国の相応しい社会秩序という最大の精神的インフラ拡充に期する所がある(近代刑法的な秩序として執行猶予制度自体が無い事が死刑を迅速に執行する事で法廷被告の人権を無視する結果となっている)。
 確かに現況ではアベノミクスも巧く行っている。しかし安倍晋三総理の真意が仮に国家主義的な再興にあるのだとしたら、ある部分では憲法九十六条改正は急務だとしても、憲法九条の改正は一定の慎重さを要するとは言える。勿論九条は改正すべきであるが、その文言をより注意して書き換える必要性がある。一旦これを文言化してしまうと再度改正する事が極めて困難となる。息の長い国民全体の議論を要する。これは景気対策としての金融緩和とは訳が違うのである。
 経済政策も中央管理主義的国家観とは容易に切り離せない要素同士の施策問題である。東国原氏の国会答弁での中央集権にしなくても地域主権にする事だけで国民意識は維持出来るという考えは正しい。未だに中央管理主義的発想の閣僚も居る様だが、徐々に日本維新の会、みんなの党等に拠る国会論戦と政策立案とに拠って中央管理主義的発想から市民自身の自主管理的社会へと移行していく事が待ち望まれている。
 その為にも次回はより抽象的でもある自由に就いてもう一度考えていく必要があるだろう。
 付記 この文章を書き始めた頃よりもいじめ自殺問題が大きく報じられなくなった。これはアベノミクス効果であろう。しかし事の色々な本質が景気回復と共に見えなくなっていってしまうのは危険である。マスコミ報道もそれを反省する暇を無くす程の北朝鮮の動向ではあるが、こういう時節故に寧ろ冷静に社会インフラとして肥大化しているマスコミと一般企業管理者層の無意識的精神的談合体質を分析すべきではないだろうか?