Monday, March 12, 2012

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第七十八章 日本人を精神分析する/与野党攻防に見られる失言揚げ足取りゲームと政治の芸能性

 今から僅か数年前の小泉内閣政権時代(2001~2007)にわれわれ日本人はある意味では高らかにゼロサムゲーム化されていく社会を歓迎していた。それはある意味では葉境期に差し掛かった日本人にとっての一時の幻想だっただろう。しかし僅かその二年後にはリーマンショックに見舞われたのだった。にも関らず個人内部では個人の私利私欲に付き従う市民の像も浮かび上がってくる。不用意に愛国心を持てなどと言っているのではない。だから最低限の冷静なる政治経済の動きへの分析だけは必要ではないだろうか?寧ろ自分が生活を成立させる土地と国家への愛は戦中に持たれた愛国心などという安物のそれとは比べ様もないくらいにもっと切実な何かであるべきではないだろうか?
 資本主義マネーゲームは何も小泉竹中路線が最初に打ち出したことではなく、小泉時代より13年遡るリクルート事件に象徴される時代、つまりバブルに大いに発揮されていたことだった。
 日本は日本史的に考えると、平城京制定以前からその制定と崩壊迄と、平安時代、そして鎌倉時代、そして戦国時代から安土桃山時代、そして江戸時代、そして明治維新、そして日清日露戦争の勝利から敗戦迄、そして戦後民主主義時代と大きく現代から顧みて七つに分けられるものと思われる(取り敢えずそうしておこう)。
 すると日本人は欧米列強へと肩を並べることだけに執心してきた時代が明治維新以降だとすると、あたかも日本人の近代的意識とか精神的レヴェルは明治以降確立されて来た様に思われるが、実際はそうではない。寧ろ精神的には江戸時代に確立されてきたことに一番拠っている。
 去年の東日本大震災で多くの市民が感じ取ったことは、地元(津波被災地から福島第一原発に迄)に救援に来るレスキュー隊とか瓦礫処理に関わる人員、或いはヴォランティアで活躍する芸能人達個人の力に比べて如何に政治自体が政局的シーソーゲームだけに打ち興じているという政治自体の持つ虚栄性であった。
 だから逆に国政からは離れ都知事に納まった石原都知事が「天罰だ」と言ったかと思えば、次は「今東京のレストランなどで都民の話すのを聴いていると、一つも東北のことを話題になどしていない。それだけ今の日本人は我欲に侵されているのだ」と言い出す始末であるが、それを比較的微笑ましく聴いてしまっている国民の像も仄浮かぶ。
 天罰発言では今の日本人に対して、それ見たことかという文脈で述べた者が、次の発言機会ではその被災地への復興に手を貸さぬ地方自治体の長、首長への批判、その首長をして首を縦に降らせない各地方自治体の市区町村民全体への批判となっている。支離滅裂な論点はそれが国政ではなくより市区町村民にとって身近な地方自治であるからこそ許されると国民が踏んでいるのだ。だから河村名古屋市長が南京大虐殺の殺戮した中国人の数が現実味がないという発言も撤回する気などないと市長が言っても許される範疇のこととなる。
 しかし同じことを大臣などが国政に於いて述べたなら、即日辞任の憂き目に遭うことだろう。
 日本人は異様に失言を許さないという形で美学的に政治を虚構空間的なものにしておきたいのである。特に国政に対してはそうである。しかしそれはかなりマスコミ、ジャーナリズムがその決済に関して発動してきた歴史も浮かび上がってくる。
 失言は古くは「馬鹿野郎」と言って解散した吉田茂元総理の時代から宇野宗佑元総理による「三本指」を経て森元総理による「神の国発言」などを経過して数限りなく登場しては消えて行った。
 比較的最近の事例から言えば鉢呂吉雄経産大臣(野田内閣)による「死の町」発言である。しかしよく考えてみると、それは事実ではなかっただろうか?或いはそれより少し前の松本龍復興大臣(菅内閣)による宮城県知事に対する暴言などが挙げられる。
 実はそれもこれも全て日本の場合失言は、その失言を何時するかしないかと心待ちにしているVIPに四六時中付き纏っているジャーナリズムの回し者によってその都度都合いい様にでっちあげられてきたのだ、と言える。しかし極めて問題なこととは、その失言をした人の技量、実績その他、要するに「それを言っても許せる者かどうかを」見極めて批判している、ということである。当然のことながら鉢呂氏も松本氏もその器ではないとマスコミも国民も判断した。
 しかし石原都知事の失言に対しては「あの人はああいうことは何時ものことだから、まあ気にしない様にしておこう」という形で遣り過されてきたのだ。それはある部分では今人気絶頂にある橋下大阪市長に対してもそうである。小泉元総理にしてもそうであった。「そんなこと迄私にわかる筈ないじゃないですか」とか「何かもっと大きな総理という職責の上では、それくらいの公約が守られなかったとしても大したことではない」とか「格差とはそんなに悪いことじゃない」など全ての発言は異様なる小泉フィーヴァによって全てまあ気にするほどのことではない、という形で遣り過ごされていたのである。
 要するに日本人による同じ失言でも人を見て、あの人なら許されるけど、別のあの人に対してなら許せないというその場その時での丼勘定はまさに江戸期庶民に形作られてきた精神構造の反復である。
 江戸期とは日本全国的規模に桜(染井吉野)が江戸から普及される過程であったと同時に、江戸前の東言葉、関東地方方言が、重要な上方言葉や京言葉を残存させつつも次第に文法の根幹にまでグローバルスタンダードとして定着させてきた時代であった。そしてそれは同時に芸能的な政治の在り方とか文化を全国的規模で、つまり地方毎の差異以上に全国的スタンダードで染め上げていく過程でもあったのだ。
 言語学者にして日本言語史研究家でとりわけ近代日本語確立の研究で知られる杉本つとむの「東京語の歴史」で著者は「常に文化は芸能を発展の先払いとしておくりだすものなのである。言葉の芸術よりも行動、振舞いのそれが時代を先取りするのは、古今東西の通則である。」という言葉は言い得て妙である。
 何故なら日本では明らかに歌舞伎役者に対して「よおっ、~!」と掛け声をかけるに値する花形役者とそうではない役者をきちんと差別する様に失言に対してもそういう風にきちんと差別してきたのだから。
 柳田稔元法務大臣(菅内閣)の地元での演説内容は許し難いものだった。それは柳沢氏が小泉氏や石原氏ほどの逸材ではなかったからである。同じことは久間章生初代防衛大臣の「あの時は原爆は仕方なかった」発言でも適用された。鴻池祥肇特命担当大臣(小泉内閣)の長崎男子誘拐殺人事件の両親に対する「市中引き回し」発言でも言えたし、柳澤伯夫厚生労働大臣の女性への「子供を産む機械」発言でも言えた。
 私が問題にしたいのは、相手がかなり遣り手である存在に対しては、それが如何に非常識且つ許し難い発言であってさえ、それを見逃すという日本人の丼勘定的な迎合的体質と思考回路なのである。
 これは少なくとも近代社会以降の自由平等の原理には著しく背く。
 ある意味では日本人は歌舞伎の舞台を観る様な具合で、ある花柄役者に対しては大いなる失言でさえ愛嬌ある癖として済ませ、そこ迄認可されていない存在に対してはほんの些細なミスをも許さないのだ。これを前近代的シャーマニズムの思考回路と言って何処が間違っているだろうか?
 昨今の橋下氏による学者その他の人達への発言は著しく主観的であるし、震災直後の天罰発言は少なくとも昨今の田中直樹防衛大臣の失態よりも見過ごせないものであった。性質的にはそうであるのに相手が花形役者、石原慎太郎であるという理由だけで見過ごしてきたのである。
 それどころか松本龍氏や久間章生氏の発言や態度は決して褒められたものではないが、その性質上分析しても石原都知事の失言ほどの大きさもなかったと言える。柳澤氏の発言でさえ、勿論決して巧い表現ではないし、極めて不注意ではあるけれど許される範囲内ではなかっただろうか(尤も結局安倍内閣が短期で終了したので、このことで氏が久間氏や松本氏の様に断罪されることはなく済んだのだが)。増してや中山成彬国土交通大臣(麻生内閣、何と四日だけの執務であった。この短さは鉢呂大臣の九日を上回る)による成田空港の拡張問題、観光振興に関する単一民族そして日教組が教育のガンという3つの失言を行なったことなどは取るに足らないどころか、寧ろ正論ではなかっただろうか?
 要するに日本人は江戸期に確立された様々な大衆文化芸能としての歌舞伎、文楽、落語の乗りで政治自体を一つの高みの見物を出来る芸能として取り扱ってきたのである。だからこそそれが鑑賞者として見応えがあれば、それを例えば小泉劇場などと命名してきたのである。
 それは実は深層構造では延々繰り返されてきているのだ。だから失言に対する批判に日本では公正さというものが微塵もない。要するに大衆という実は訳が分からず実は正体不明なものをあたかも確固として存在し得るものとしてその大衆を操作する図式を戦略として持ってきたマスコミ、ジャーナリズムの論調をあたかもそれをお笑い番組「笑点」を鑑賞するかの如くよいしょよいしょと神輿を担ぐことを躊躇うことなくしてきたのだから。
 日本人は何処かで政治や経済を高みの見物で静観しているという風情がある。それはしかし既得権益受領者による態度である。それを打破する勢いを仮に橋下大阪市長に感じ取ることで他方では更なる権益者に対して批判の矛先を向けられるということで溜飲を下げているのだ。
 この高みの見物、外野席から野次だけ飛ばすかの如く世論全体を静観して、些細な失言に対してだけ目くじらを立てて、それを批判するマスコミやジャーナリズム自体への批判をすることなく、その浅はかな戦略に乗せられて喜んで後押しして政権交代もする様に促したのが今の日本人である。それはある部分では何時迄経っても親方日の丸の迎合意識から脱皮出来ない幼稚な心理に裏付けられていると言っても過言ではないのだ。
 確かに東日本大震災では大きな傷を国民にも残した。それはしかしこれ迄我々が政権選択などでしてきた無責任なマスコミ、ジャーナリズム自体がでっち上げてきた幻覚的な似非世論にその都度振り回されてきたつけでもあるのだ。
 確かに政治はある程度メタ言語的営みでなければ公的機能としてはその力量を発揮し得ない。しかしそれはメタ言語的であるはあるものの、そのメタ言語の性質を精緻に一般国民や市民が分析していく必要があるのである。江戸期に花咲いた歌舞伎や文楽や落語の様に後腐れのない娯楽では政治経済はあり得ないのだから。そしてだからこそ「あの人は心底悪い人ではないからああいった失言は許してあげよう」とか「あの人は大した業績も知名度もないのに、あんなことを言って許せない」という安易な丼勘定的査定に対する自己批判をすることを忘れないということでもある。
 今一度真剣に真に国政、地方自治に求められているものとは何かということを考える時、かつてケネディが言った様に国民、市民一人一人が自分自身の非力ではあるものの何らかの発動し得るパワーとは何なのかという問いかけから国政から地方自治迄分析していくことが求められているのではないか?それは安易な失言に対する政局的利用という形でのマスコミやジャーナリズムが正義とでっち上げる作為をさえ冷静に分析していく心の余裕が国民市民一人一人に求められている、ということではないだろうか?
 次回は情報収集の不備が実は政府自体にあるのではなく、国民の意識にあるのではないかという論点で論じるつもりである。

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