Wednesday, March 23, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第五十八章 自らのクオリアに目覚めることは悪に目覚めることである/人類を生存に導いてきたのは倫理でなく悪の発動である  

 ツイッターをし始めてそろそろ一年半くらい経ったが、私は私の独断的、独善的ツイートに刃向かってきた大半の人をブロックしてきたが為にフォロワー数は意外と少ない。そして今現在フォロワーでいてくれる人達は私に基本的に異議申し立てすることを差し控えている私にとって無害な人達である。その分で彼等は賢明である。何故なら不必要な争いを避けてきているからである。それは人類にとって弱き者が採用してきた最善の生存術であるかも知れない。
 しかしそれは私にとってである。他の人にとってはそうではないかも知れない。そして今の青年の多くはか細いセンシビリティで、繊細さだけで生きている。それは時代的な状況をそのまま映し込んでいる。何故なら競争を回避し全ての同時代の青年達と共に共存するという意識にあるからだ。まるで本能的に生存を脅かされているとでも言いたいかの様である。そういった繊細で他人の不幸を作ることの極度の恐怖だけが自らの正義である様な生き方のスタンスは一つの目的に社会が収斂されていた時代の終焉と共に決定づけられていた態度であるとも言えよう。
 刹那的な自らの生のクオリアに対して感謝の念を捧げることに吝かではない青年達の主張は、そのクオリア的感受の現象性が自分自身にしか分からず、他者と分かち合うことが出来ないと言う分析哲学命題を地で行っている。そしてその他者一切には了解され得なさだけで今の青年達は同時代性に於いて結束しているという心理が一般的ではないだろうか?
 しかしそれは決して行為責任のレヴェルでは命題的にマクロ化し得ない、一般化することもないだろう。何故なら行為責任とはある行為が外在的に価値を帯びることであって、それは他者一般、他者全般にとってどう読まれ得るかということだけが問題だからである。自分自身の拘りなどそこでは一切通用しない。
 その意味では自分自身が生まれてきたことの奇蹟に感謝する表明ともなっている各分析哲学や論理学的学問の全ては(そう言い切っていいと思う)、刹那的な生の輝きに対する称揚に明け暮れ、恐らく外在的には何も価値をも産出し得ないだろう。勿論中には後代に於いてオイラーとかラマヌジャンの様に天才であったと称されていく人もいることだろう。しかしそれは現代青年の無数の試みの中の数億人の中の一人か二人に限られよう。従って私が何百人の青年達と出会っても、その大半は些細なクオリア的感受に対する感謝の念を捧げる様な、要するにそれが絵画であれ論理学の数式であれ、難解な経済理論であれ所詮大半は人類全般にとっては取るに足らないミクロ的叫びでしかないだろう。否それに生涯を賭けるのだという意思表明自体は貴重であり、倫理的には称揚され得るべき要素もなくはない。しかし残念ながら人類はそういった潔癖なまでに清さとモティヴェーション的純粋さを追求してきたから生存し得て来たのではない。寧ろ積極的に個の内部で現象性としてのみ理解され得る知覚やロジック、色彩的差異に目を留めてきたのではない形での、要するにもっと大雑把にミクロ的拘りを捨ててきた者達だけが何か意味世界に於ける偉大なる発見を後世へと齎してきたのだ。それは端的に倫理的問いが今必要だと思わせるくらいにインモラルでアンモラルなだけの非情さ、他人のことなど一切顧みない生存への執着だけである。
 それは今私自身によってのみ覚知され得るが故に価値ありと私が判断するものの現象性の価値を全て根こそぎ無視して何かをマクロ的に把握しようとした試みだけが後世に何かを残し得る(その大半が徒労に終わっているのだが)と言えよう。
 そして極めて矛盾することであるが、それは自らの生のクオリア的感受を、一般性とか自然科学的法則的普遍性から切り離して、要するにマクロ的価値外の些細な自分自身にだけ感受され得る瞬間的なこと、そして私が見る赤という色は貴方にとっても赤であり得るかということ自体に異様に拘ること自体に価値を見出し得る者が、その拘りを潔く諦め棄て去ることによってのみ、得られる偉大なる発見であると言えるのだ(大半の者が些細な生への感謝によって生のクオリアへの感謝という感傷に浸って他者を説得する術を得られずに死ぬ)。
 要するに機能論者であり、唯物論的な自然淘汰論者であるダニエル・デネットがクオリアという語彙が乱用されている状況に批判を加えた「スウィート・ドリームス」に於いて、クオリアが今まさに見えていることへの覚知なのか、それとも見たことに対する印象(記憶の上での反省的な)なのか判然としないということからクオリアという概念の乱用に懐疑的メッセージを突きつけたこと自体が象徴的に我々に納得させる、それでも尚そこにあたかもかけがえのなさ、つまり生の実感としてあたかも価値があるかの様に思える脳科学、分析哲学的概念が現代社会でシンボル化している事実自体(に対する認識)から我々は幾分かの真理を読み取ることがを可能だ。
 つまりそれは一種の現代人の宗教なのである。それは反事実的条件法も、二重の条件依存性などという分析哲学テクニカルターム自体が、同じ条件という語彙を動物行動学者や心理学者が使用する時と全く異なった意味合いをそこに連想する様な意味での固有のサークルであり、宗教なのである。
 それはある行動が自分自身の信念に基づいて行われているのだから絶対正しいと思って全ての人々が行動していても、例えばもしこの様な大震災が起こることを予め知っていたなら、かの十六人の民主与党衆議院議員達は現政権に謀反的行動を起こさなかったであろうことでも、かつての小泉チルドレン達も、小沢ガールズ全てに言える。
 つまり行為責任と意味の世界では、個に内在する生のクオリアとか現象性としてのみ語られる、例えば永井均の<私>などというもの等全てを含んだ「語り得なさ」の価値とは、全て外在的客観性の下で精査されることを通して個内部の生への感謝とか、一個の生命が地震によって一瞬にして奪われる理不尽で不条理な自然の摂理の非情性への感傷的嘆きを一切無効化する様な四捨五入的な全てに対する拘りを捨て去ることによってのみ意味化されているし、それが些細で取るに足らない個人の感傷であるとマス(集団)に於いては無視されることを通して個内部の生への感謝の拘りとして価値化されているが故に、無視と非情、一切の感傷を打ち捨てる、言ってみれば悪の発動だけが我々を生存に導いてきたとも言えるのである。つまり極めてセンシティヴな青年のツイートを私は決してブロックしない理由が、私に直に刃向かってこなさにある様な意味で、その余りにも繊細で壊れやすいメンタリティを価値化しているのは、端的に非情さであり、冷淡さであり、悪そのものである。そしてその事実を決定的にし得るのは、あらゆる地球物理学者や環境自然科学者の実力や人類にとっての有効性を打ち砕いた今回の様な大震災によるカタストロフィックな突発性そのものである。まさにそこから又ぞろ分析哲学者に運命論を乱立させる余地を残している。
 だからこそ政治の局面ではマクロ化され得るものだけが価値化され、社会及び国家命題化されるし、そういった個内部の求心的な拘り一切を捨てた遠心的で大胆なリーダーシップだけが意味化され、一般化され命脈を保つのだ。そして彼等そういった大胆なリーダーシップの実践者とか為政者達にとって個内部では現象性としての生のかけがえのなさからの極度の乖離から極めて精神的負担が大きくトグロ巻いているということを我々は容易に想像し得る。にもかかわらずその個内部での矛盾を殺して自己犠牲にしてまでもリーダーシップをとれる態度だけを我々は政治哲学上での価値と見做し得るのだ。
 それは他者存在自体が既に極めて外在主義的に唯心理的存在でしかなく、一切のクオリア的感受の生への感謝など、一切の現象性をどうでもいいことにする行為責任にのみ価値の照準が設定されているからである。
 繰り返し言おう。悪の発動だけが意味を命脈化し、一般的価値にしてきたということ、そしてその悪の発動とは行為責任に於いて価値化され得る為に個内部のあらゆる拘りを棄て去った時のみ遂行し得る、それはあらゆる倫理的問いを、倫理的問いを生んできたのが非情さ自体であると認識することによって繊細さの一切を剥奪する大雑把さだけが他者存在の外在主義的実在論では価値であるとする認識によってである。そして特に行為心情倫理主義的日本人(全てを慎ましやかに静観すべしとする不謹慎称揚主義者としての)にとっては天皇制があらゆる性善説的モラルの起源となっているが、実際にはそれ自体が建前であり、第二次世界大戦によって焼け野原と化した状況自体を生き残った全ての国民が国土復興へと差し向けられた又とない絶好のチャンスであるとその焼け野原を見て思った様に、東北関東地方の被災地の悲惨な現状をまさにこれから心機一転、金儲けの手段としたり景気復活の気運としたりすることは、決して悪いことではないのである。何故ならそうやってのみ人類は今迄生存してきたのだから。そしてその度に貴重な犠牲者に哀悼の意を捧げつつ、我々の祖先もそこから不死鳥の様に蘇って来たのである。
 恐らく私達アラフィフ世代の持つ非情さに対する価値化に於いて現代の青年達は私達が後数十年以内に死ぬ迄凌駕することはないであろう。しかし私達は必ず先に死に、今犠牲者に対して繊細な感傷主義に耽って不謹慎であると嘆いている青年達は私達が命果てる時には立派な中高年になっているのである。それこそが人類による行為責任による連綿とした継続なのである。

No comments:

Post a Comment