Saturday, March 12, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第五十六章 社会集団と協力的愛の在り方の変化に就いて 第三部 緊急更新版No.1

 一昨日の11日(2011年)に東北地方と太平洋岸一帯で大きな地震があった。このマグニチュードレヴェルは江戸時代以降最大のものであると言う。そして日々死者数も増加しつつあり、恐らくここ百年以内でも最大の犠牲者数をアウトプットする自然災害となるだろう。
 我々非専門家は統計的数値に関しては公的機関の発表を待つしかない。
 しかし公的機関がエア老人などの問題に対しても厳密な把握をすることが出来なかったことなども併せ考えると、やはり我々は公式発表の数字以上の災害と犠牲者がある、と考えることもまた自然なことではないだろうか?
 そして今の社会が恐らく百年くらい前の仕組みのまま維持されてきている、それは専門家のポジションに対するロール分担的な不文律が固定化してしまっているということ、それに対して一定の批判とか意見を容易に全ての機関が汲み取れないという事態こそが、マスコミに無責任な報道と言動を多く発してこさせたという側面も否定出来ない。マスコミは非常時でさえ、閣僚などの不祥事を暴き立てることに血道を上げている。これはある部分では資本主義社会の矛盾点、つまり利潤追求自体が既にある種の綻びを来たしている証拠ではないだろうか?
 確かに一方では社会では理想を追求するスタンスとか発言の自由は保証されて然るべきである。しかしその自由への要請が過度になり、内的にその自由を謳歌する権利問題だけが拡張されると、次第にモラルとか社会倫理的な配慮と適切性を欠いた討論至上主義とか、論理的反駁能力ばかりが追求されていってしまうという悪しき状況こそが、今NHKからアマチュアの全ての組織を通じて時代的な趨勢になりつつある。
 昔の社会にあったほのぼのした良さを取り戻せと言っているのではない。そんなものは全て年配者が抱きがちな幻想である。要するにおかしいと思われることがあるなら、誰しも積極的に社会的に容認された社会的地位に関わらず発言する自由を持つことは当然であるとしても、尚相当の批判能力や正当性を持った意見以外の大半を聴く価値などないと切り捨てていく勇気も必要である。又死などを論じることは青少年にも権利はあるが、大半の青少年による死の哲学はロマンティックな夢想に終始している、ともし年配者達が感じたのなら、若い世代に遠慮なく幾らでも批判すべきであり、それはマスコミ的言説に対して不可思議で理解出来ない要素を発見したら、相手がどんな権威であっても率直に意見を言うべきである様な意味で、全ての奥歯にものの挟まった言い方は消去させるべきである。そしてそのことと自由討論至上主義は全く両立しない。自由とは須らく抑制された配慮と、理性的な慎重さによる妥当な在り方が常に求められている。
 又ある意味では特異で多くの人々を率先してリードする能力全体への見直しも我々は検討すべきである。無責任な発言で大衆をミスリードしたマスコミ自体への訴追と同時に、相手がどんな権威者であれ、その失政的責任は充分取らすだけの理性も我々には求められている。
 それに今人類は既にかなり危機的状況でもあって、国家間の政争や紛争をしている暇はない。既に中国、ニュージーランド、日本と激震自体が恒常化しつつあり、これは無能力であるしかない現代の地球物理学者達の予想を遥かに超えた地球環境自体の、人類の側からの努力だけでもどうにもならない過渡期にあるとも言える。そしてそれはかつて地球上ではずっとある間隔を置いて起きてきたことでもあるのである。だから全ての国家首脳はナショナリスティックな意味でエゴイスティックな見解を放棄していく必要性を求められている。
 中東や北アフリカの独裁者達を何時迄も野放しにしておく余裕は今の世界にはない様に、領土的な紛争に終始している暇も我々にはない。それよりももっと早く人類自体が生存していけないかも知れないのだ。これは大きな地震が起きたからだけでなく、かなり以前から既にそうである。地球温暖化は我々によって加速させない方策は取れるかも知れぬが、恐らくそれだけでもそれを阻止することは不可能である可能性も高い。
 極論すれば、車などレスキュー的使命を帯びたもの以外の一切を各種交通機関以外の個人所有を放棄さえするべきかも知れないのだ。それは自由競争的な起業に関してもそうだし、マスコミ的機関も、マスメディア自体の自由さえそうかも知れないのだ。そして常に有益な情報は利潤追求によってではない形での方がより自然に我々にとって獲得し得るのだ、という理念をも念頭に入れておくべきである。
 つまりこれからの人類は既に仕組み自体は貨幣経済社会的な水準での習慣を残しつつも、資本主義自由競争的視座を大幅に見直す、しかも個人の自由の在り方さえも、努力して稼いだ者なら自由にお金を使ってもいいという不文律さえ見直していく必要性があると私は考えているのだ。そしてエリートとかインテリの従来どおりの在り方自体も大幅に見直すべきである。既に一部の大学組織での研究者にだけ大幅な研究予算を割り振ること自体も考え直すべき時期である。
 極度の成果主義も危険であるが、同時にアカデミズム自体の自由な空気自体も、多くの市民による検証と批判に晒されていくべきである。そしてその事における自由な提案に対し、一切のタブーや高尚なスノビズムを排していくべきである。相手がどういう社会的地位であるとか、どういう立場であるかということに対する権威主義的チェックさえ無効化すべきである。必要とあれば中学生の意見を大幅に取り入れてもいいし、逆にどんな権威者の意見でも下らないものであるなら、どんな立場の者でも自由に批判することが出来て、即座に撤回することも容易なシステムを社会全体に行き渡らせるべきである。しかし同時に責任追及自体の過度な報復をも常に抑制する配慮もシステムに組み込むべきであり、容易に社会復帰しやすい機能を全ての市民が持てる様にすべきである。
 又新たな情報が入り次第、考え方を纏めてみようと思う。

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