Wednesday, February 23, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第五十五章 社会集団と協力的愛の在り方の変化に就いて 第二部

 前章では私達一個一個の社会成員の能力や資質は集団毎に変質していくし、ロールプレイ上でもその都度交代したり、変化したりするのだから、私自身の資質や人格を「河口君は~である」と捉えることは、人によって異なる。私自身を分析的であると捉える人から、総合的だと捉える人、実務的だと捉える人からアーティスティックでポエティックであると捉える人までいて、それはそれぞれ間違っているわけではない。私自身が私を「~である」と捉えている像だけは正しいわけではない。従ってそういった意味では固定化された「~である」資質、人格、能力で肩書きをつけて国家レヴェルで著名人となっていくことだけが社会に貢献することではない、ということを述べた。その考えは変わりない。寧ろグループ毎に異なった役割を我々は担うが故に、どのグループに帰属する時にも変わりないロールとか肩書きなどない方がよく、そういった意味では全ての個人が多重的性格を帯びた肩書きで、資質で、能力で、人格であっていいし、又そうであることが可笑しなことではない社会自体の到来は待たれると私は考えているのだ。
 これはNHKの特番などで出演して意見する批評家の宇野常寛氏の主張内容を概ね認めるということである。しかし宇野の考える多義的で多層的な社会の在り方を遂行して行く為にはどうしてもクリアしていかなければいけない課題がある。それは特に年配世代の人達(それはかつて戦争を経験した世代という意味だけでなく、現代で言えば団塊の世代などが老人の世代に突入しているが、これから老人になっていく全ての世代のことである。しかも日本は益々高齢化社会になっていきつつある)にとってこの国の居心地のよさとは、端的に家族主義的な雰囲気を会社とかそういった組織や集団が持っているということであるが、同じことはアメリカでは決して当て嵌まらない。アメリカでは能力自体を社会に奉仕させるということに純粋に抽象化されていて、人間性自体を社会に売って生活しているわけではない。しかしその様な社会であるなら、宇野の主張する様な、会社の勤務時間が引けた後は、何時迄も会社内の対人関係を引き摺ることなく、後は各人が持つ趣味とかの集いに感ける時間で生活体系は構成されていってもいい、という理想は体現されよう。
 しかし日本の多くの安定化した経営の大企業などは未だに決してそういったドライに勤務時間とオフの時間を全く別個の次元の生活時間として割り切る仕方にはなっていない。
 つまりこの点で極めてドライな成果主義的な、ある意味では小泉竹中路線的な考えが会社員とか、従業員と経営者の間で完全同意されていなければ、多重性、多層性の社会は到来しない。
 この点の難しさに関して宇野は決して触れていない。この点は強調し過ぎてもし過ぎることはない。要するに宇野によるテレビでの発言はアメリカ型職業倫理を前提にしている。従って職場以外の趣味の集いの方に生き甲斐を見出すことを通常化させる為には、仕事に人間性レヴェルでの相互干渉主義を介入させないアメリカ式の完全能力主義にしなければならない。しかし日本の役所関係の仕事などでは、そういったことはかなり困難を極めるくらいに家族主義的なことが幅を利かせている(勿論上司と部下の関係ではいい上司がいい部下を育てるということに於いて各部署毎に人員の顔ぶれも違うので、勿論場所毎に差はあろうが、そういう考え自体は死滅していないし、寧ろそれこそが理想の職場であるという観念は日本人は根強い)。
 ハル・ヤマダの著作「喋るアメリカ人 聴く日本人」(須藤昌子訳、2003年成甲書房刊)はこの点では教えられるところの多いテクストであった。特に<上役は母役>(204ページ~207ページ)の記述はそれを端的に物語っている。少し長いが、全文を掲載しておこう。
 
 アメリカ企業では人事のトップに女性が就くことが多い。識者によれば、幼い頃から他人の世話を焼くようにしつけられる女性は人を管理する能力に長けているというのだとか。そんな見方がおかしな循環論法_男は人事でのポストを求めない、なぜならそうした情緒的な仕事は女性にうってつけだから_を生んでいる。感情的な響きを嫌う傾向は部署名にも反映され、「人事(personnel)」より「人的資源(Human resources)」のほうが人気が高い。なかにはhumanまで割愛して「資源配置(Resources Allocation)」とする企業まである。
 ビジネスの基本を人間関係に置く日本では、そのへんの事情はまったく違う。男性にとってはむろん、多くの女性にとって人事は魅力的な部門だし、部下の育成は男女に関わらず管理職に求められる能力と考えられている。第四章で述べたように、日本では面倒見の悪い上司は職業人として失格なのだ_仕事に私情を持ち込むのがプロ失格とされるアメリカと違って。
 日米の「プロ意識」の持ち方がいかに対照的か、身をもって感じた出来事をご紹介しよう。アメリカのある大学で日本語科の教員を束ねた立場にいたときのこと。講師は私を含めて女性三名、ティーチング・アシスタント(TA)が男性三、女性三の計六名。全員が日本人のチームだ。
 TAの男性のひとりが、私が別なTA(男性)をえこひいきしていると言っている_人づてにそう聞いて驚いた。さてどうしたものかと思い、部内の同僚たちにアドバイスを求めてみた。あるアメリカ人教授(女性)いわく、そのTAには余計なことを考えずに仕事に専念しろと言ってやりなさい、これだから男の人は….とのことだった。「上司が女だってことにうまく対処できないのよ」
 しかし日本人の同僚(女性)たちは、彼は態度を改めるべきだとは言いつつも別な提案を示した_彼が疎外感を感じぬように私がもっと彼に時間を割くべきだと。たとえば彼が用意した講義用資料をチェックしてあげるとか、答案の採点に目を通してあげるとか。あなたにかまってもらいたくて「だだをこねている」だけなのよ。仕事に専念しろなんて言っても逆効果、それより、君もチームの一員なのよとわからせてあげるほうが建設的ってものよ_だそうだ。これらの忠告には、過度に彼を甘えさせてやらない私にも責任の一端はある、とのほのめかしが透けて見える。
 だがアメリカ人の同僚に言わせれば、そうした試みはさまざまな意味でプロフェッショナリズムの侵害につながりかねないという。ひとつには、TA自らの判断で職務を遂行する権利を否定することになる。また、絶えず私に仕事ぶりを監視されているような不信感を生む。最後に、そうした日本人的行動はあまりに情緒的すぎてプロの仕事ではないという。件のTAは大人なのだし、彼の情緒の安定を保つことについての責任は私にはない、と。
 ところが日本人の同僚たちからは第二の忠告があった。彼に指導・助言をしたら、そのあと科内のミーティングで、それとなくばつの悪い思いをさせることによって彼に自分の態度が不適切だったことを知らしめるべきだというのだ。たとえば「今週は、特別にあなたの作った資料をチェックしてあげたけど….」とかなんとか。そうすれば彼も自分のやり方が間違っていたことに気づくだろう、と。
 この忠告をアメリカ人の同僚に教えたら、みな一様にぞっとした顔でこう言った_「そんなのあなたの仕事じゃないわ!何?あなた、その子の母親?」
 アメリカ人からすると、母親役を押しつけられるのはまっぴらごめんなのだろう。そんなか弱い役に甘んじていないで、TAには女でも男と同じ、ボスはボスだとはっきりわからせるべきよ、と。
 役割意識の強い日本でも、むろん上司には上司たる地位が認められるが、それはあくまでも<甘え>関係の中で成り立つ地位なのだ。このエピソードなども、ビジネスマンを理想とし、「独立」主義の明確な忠告を述べるアメリカ人と、慈しみ深い母親を理想とし、「相互依存」に基づく曖昧な忠告をする日本人、という両者の特徴を如実に物語っている。
 結局、折衷案をとることにした私は研究室に件のTAを呼んで言った_不公平な扱いを受けていると感じているそうだが、私にはまったくそんなつもりはない。あなたの態度にはチームのみんなも困惑している。講義の準備や採点の仕方について質問があればいつでも喜んで応じるから、もっと節度をもった行動をしてほしい。すると彼は破顔一笑して言った。
「ありがとうございます。叱られてかえってすっきりしました」
 これで八方まるくおさまった。TAは念願の注意を振り向けられ、カリキュラムは滞りなく進み、私も完璧にとは言いがたいがなんとか養育係の役目を果たした。(9、役割モデル_「職業人」と「慈母」)
 
 この著者はアメリカで市民権も取っておられる方であるが、最終的には日本的な相互依存的な甘え容認主義に組した決断で困難をすり抜けている。
 しかし宇野的ドライな従業員の側からの 仕事=お金を貰う手段 という合理的行為実践論からは、この様な慈母的な接し方を従業員自身が求めていないということは、逆にかなりのスキルを仕事能力で持っていなければならない。つまり日本型の就職する迄は却って余りスキルを持っていずに、集団とか組織の一員として馴染んでいくに従って徐々にスキルもアップしていけばよい、という経営者の側の目算には、宇野的考えが社会で貫徹されることは程遠いと言わねばならない。スキルを身につけていて責任さえ果たせば後は何も言われずに済む式の職業人の在り方に全面移行するには余りにも日本は未だ年功序列的な対人関係と、組織内、集団内の相互依存、甘え体質が隅々にまで行き渡っているのである。
 例えば宇野常寛氏自身は「思想地図β」で<郊外文学論_東京から遠く離れて>といった長論文を書くだけのスキルを備えた論客であるが故に、自身が主張されるある種の ドライな職場=スキルと責任遂行のドライな非家族主義導入的な割り切り という考えは極自然に抱きやすいと言える。しかし私の知人も主張していることだが、新しい社会世相、例えばウェブサイト上でのコミュニケーションというものは、今迄になかった現象であるが故に目立ちやすいが、日本社会には未だ未だ(恐らくそれは米国であれ、何処であれそうなのだろうが)伝統的な考え方とか、因習的な考え方が隅々にまで残存している。つまり古いままに残された慣習性とはそう容易に一朝一夕に変更が利くものではないとも言い得る。つまりだからこそ、アメリカと日本を三年おきに行き来する社会言語学者のハル・ヤマダ氏をして斯様な論文を書かせるに至らしめているのである。
 その意味では私自身は理想的には宇野常寛氏の考えに組するものであるが、現実的には尚更なる超えるべきハードルが社会の隅々に立ちはだかっていると考えることは極めて自然であろう。しかも日本国内には、未だ未だ関東地方で当たり前のこととか、近畿地方で当たり前のことに於ける差異も多数残存している、と私は考えている。とりわけ東京や横浜、或いは大阪や京都、奈良などでは全く異なったタイプの礼儀とか、社会慣習が存在する。その点では郊外型に生活実感としての拠点が移行しつつあることを文学作品の主題性から論じている宇野氏からは批判されるかも知れないが、年配者になっていくにつれて、非郊外型の想念が支配していき、結局都市部と地方との二元化へと移行せざるを得ないという考えも私は持っている。つまりその二つを容易に越境させるモータリゼーション(「悪人」<吉田修一>に描かれていた様な)を保持することで郊外こそが<いま、ここ>という都市からの逃走線という想念を超えた在り方を現代的視座としての恒常性として規定する宇野の論拠に逆らうかの如くではあるが、年配化していく、即ち老化していく身体に於いて年配者にとって真に居心地のいい空間とは、奈良の様な自然から切り離されて建造物の人工性が囲い込まれていない古の都、或いは京都の様な枠に収められた視界から覗き見る庭園や情景の観光的な囲い込みを往復する様な空間的ユビキタス性こそが日本人の精神的寛ぎというものであるという想念は、仮に宇野の考える郊外型合理主義によって地方色を脱臭されても尚残存するというのが私の考えなのである。これは保守主義的なことからではなく、人間の拭い難き惰性的性向に起因するものである。
 次章ではその人間の拭い難い惰性的性向とはどういうもので、どういう実質的根拠があるかということを考えてみたい。

 付記 現代の就職状況は多くの青年世代の人達にとって熾烈を極めるが故に、最初から特殊技能を求められると言う事はあり得る。しかしそれは全世代に行き渡っているわけではない。既に就業している会社員などは、組織全体の、集団全体のロールを担わされていて、それはスキルだけで成員としての責務を果たしているわけではない、ということを本論では考慮して頂きたい。今の就活組は、二百社から三百社くらい受けるということ、そしてそこでは差別化されたことを求められる、と就活アドヴァイスでは言う。しかし実質的に採用する側が必ずそういう規準でしているとは限らないとは考えておくべきだろう。(Michael Kawaguchi)

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