Monday, February 7, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第五十三章 理性的判断と生活実利的判断

 我々が政治に於いて選挙で誰かに投票する時明らかに色々な個々人間での投票動機が異なるだろう。しかし少なくとも我々は政策的な提言が個人の政治家によってなされたりすることとか、政治状況に於いて我々有権者自身の生活実態に深く関わる政治決断を期待して、投票することだろう。これは以前2004年に於ける郵政解散総選挙に関して「決心の構造」でも詳しく書いた。
 しかし自分自身で我々が政治的選択、つまり投票をしているかどうかというと、かなり疑問である。その時々での判断は、政局全体への変革とか、いい意味での政治の活気が作られること自体を期待して投票する。つまり端的にそれは地味で内実的な政策や政治家の人格よりは、より派手で目立つ、そして華やかな雰囲気の政治家に、人格面からよりは、よりマスコミ、マスメディアイメージ信頼的にそれらに依拠してなされる。
 それは前宮崎県知事であった東国原氏への圧倒的人気による当選に於いても感じられたし、最近では名古屋市長出直し市長選でも言えた。この日は愛知県知事選、市議会解散是非を問う投票が同日選挙だった。このことに関しては民主与党をはじめ、自民党も含めて全ての政党が敗れたこともあって、総務大臣の片山氏が選挙の話題作りで党派的に仲間である知事と市長が当選したことを批判していた。
 政治は綺麗事だけでは済まない、とはよく言われることである。つまり政治とは政治的行動力であり、理念とか思想とは実践されなければ何の役にも立たないのだ、と。しかし本当にそうだろうか?
 そもそも我々が政治に期待することとは、政策とその実行である。だから当初は単純にある政治家が立候補するにしても、当選するにしても決してパーソナリティだけから選んでいるわけではない。勿論その人固有の経歴も参考にするだろう。しかしそれらと政策的期待とが総合されて判断される段階では、既に幾多の政治経歴のない人の場合には、我々は総合的評定で決する。
 政策、理念、選挙運動的行動全体を総合的に評定するのだ。
 そしてそこである候補が当選して実際に公約とおりに法案を通せば我々は一応の評価を下す。「あの人なら大丈夫だ」と。これは一種の合格点であり、一旦これを取得した政治家は信頼を得るから、途端にその政治家と敵対する勢力全体が悪に見え出す。すると悪に対してなされるどんなにあざとく狡い戦略でも我々はどうしても贔屓の目で見る様になる。つい狡さに対してさえ応援してしまうのである。
 しかしこれはやはり陥穽である。敵対勢力を撃墜させるメソッドも、そのことによって相手が撃墜されればそれでいいのだろうか?そうではないだろう。
 そういう意味では私は今回名古屋市の河村氏を応援したが、ここまで圧勝してしまうと、それも又一つの危険性を招聘したとも感じざるを得ない。つまりこういった話題性と超絶的な人気が独裁を生む場合もあるからである。
 我々には一旦認可してしまったものに対する評定は甘いという性格がある。つまり自分自身で批評対象にお墨付きを与えてしまうのだ。しかしこれはやはり陥穽である。我々は小泉政権に対して極めて甘い評価を下し、それによって多く今の生活を自分達自身で苦しめてきたことも忘れてはなるまい。勿論小泉政権が残した遺産もある。それとは別箇にシビヤに他者評定すべき観点も決して忘れてはなるまい。
 好きな者に対しては評価を甘くし、嫌いな者に対しては特別に評価を厳しくするということは我々の心的作用としてはありがちなことなのである。しかしよく考えてみよう。好きになった者を好きな者にしたのには、最初はその好きになった者の我々に対して好きにさせる行動があったのである。しかしそれを裏切る様な行動をしたなら、我々は好きな者にしたということ自体に反省を加え、好きな者への評価を覆すべきなのである。批判すべきなのである。このことは極めて大切なことである。
 勿論私は直接は私の生活に関係はないが、大村愛知県知事に対しても河村名古屋市長にも、それなりに期待している。活動自体を見守っていきたい。そろそろ東京都知事選も行われる。そちらの方が私の生活には関係ある(隣接県に住んでいるからである)。
 要するに評価を流動化させつつ、同時にその評価対象への支持・不支持もその都度再考すべきなのであり、固定化された評定や、一旦好きになった者への変わらぬ贔屓という感情は、こと理性的判断で臨むべき政治では禁物である。それはどんなに偉大な過去の経歴を持っている者に対してもそうである。否そうであればこそ厳しく評定すべきなのだ。それは全ての職業の人に対して注がれるべき視点である。それこそが安易な贔屓感情が不必要な権威主義に直結していってしまう陥穽を防ぐ唯一の手立てである。そして政治の場合そういう風に不必要な感情を導入させなさこそが、実は最大の政治の効用、つまり生活実利的判断へと直結するのである。

 付記 一旦評定に於いて是としたものを覆すのは心的にはやはりしんどいからこそ、我々は被評定者を是認していく傾向があるのだろう。これが全ての権威、前例的踏襲の温床となっている。やはり我々はその内的な惰性的虚妄製を剥ぎ取っていく努力をすべきなのである。(Michael Kawaguchi)

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