Sunday, February 13, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第五十四章 社会集団と協力的愛の在り方の変化に就いて

 NHKで数回に渡って無縁社会という語彙の下に孤独死老人を生み出す背景を、エア老人問題を発端にしてスタジオ内座談会形式の生放送で放映されたことから、マスメディアで無縁社会と孤独死という語彙がすっかり定着した。
 つい先日その最終回が放映されたが、又新年度から新たなシリーズで同じテーマを扱うのだそうだ。しかしある重要な点で私は違和感を覚えた。
 まず孤独死という語彙を定着させる動機にある時代錯誤を感じざるを得なかったからである。何故なら孤独であることに対する定義が、一向に論じられていないという点に痛烈な違和感を抱かざるを得ないのである。孤独であるということを厳密に定義するなら、全ての個人は孤独である。ある不治の病に罹る人にとってその病の辛さを人からは理解して貰えないという意味では、全ての個はその持って生まれた条件、身長から体重、顔つき、得意なことに至るまで全て他者と交換不能であるという意味では孤独以外ではない。蕎麦粉にアレルギーがあって、それが為に死ぬ個体もあれば、日中に太陽の光を浴びることが出来ない個体もある。
 しかしそういった苦渋を背負うこととは別箇に社会環境的に家族がいて、何かあったら助け合う状況にあるということだけを特定化して、それを得ていない社会成員を孤独死成立可能成員として位置づける余地とは一体どういう前提が設けられているのだろうか?
 一つは地域社会の崩壊を嘆くというNHKの意図がある様に思われる。つまりNHKは左寄りの官公労とか自治労といった組織の倫理に対して一定の敬意を抱いている。従って地域社会を政治レヴェルで統轄するという題目に於いて彼等は、年長者とか年配者と若年者迄の全ての世代が社会秩序を形成すべく協力し合うという通念に支配されている。
 勿論何の世界にもそういった社会構成的ヒエラルキーはある。だが重要なことは全てのヒエラルキーが強制的なものであってはならないということが少なくともNHKには希薄である。少なくとも視聴者に対してそういったヒエラルキーは個々の選択に於いて、或いは個々の営為努力によって自ら立ち上げ可能であるという意識を前提にしてはいない。
 その点では宇野常寛の意見こそ最も順当且つ妥当なものであった。要するに必ず我々は既に職場を中心とした対人関係の構成秩序にだけ準じていればいいという旧態依然的社会秩序論から容易に脱却し得る時代に生活しているのである。その一つが論客、宇野氏によって示されていた趣味の集いである。職場が引けてから集う集団とか組織、或いはそういった形式的なものでなくても自然発生的なヒューマンネットワークに身を委ねていったり、或いはネット上だけで構成される広場で意見を寄せたりすることから人と人の繋がりを模索することがあったっていいし、それこそ全て選択肢は自由なのである。
 もう一人の論客である奥谷禮子という方だったが、私は彼女の論理的背景を全く知らないが、少なくともネット上で形成されたヒューマンネットワークがリア充的ネットワークと違って刹那的なものだけであるという見解には頷けなかった。まさに管理社会的発想だと思ったのだ。要するに年配者を筆頭に、年功序列的な地域社会とか会社とか集団組織形態があって、それを基調に全ての社会秩序がバランスが取れていればいいという発想に思えたのだ。
 社会秩序とか社会構成とかは、私の考えでは個々人で選択肢も多くあっていいし、多層的であってもいい。つまり私自身は哲学学会にも属していても、必ずしも哲学者という専門家としてだけ社会に帰属しているのではなく、ある時には進化論系の学会にも属し、アーティストとしても活動するという様に、一つの職業に括るということ自体さえ破棄していっていいと考えている。ある一人の人間の能力は相対的である。Aという人にとってBは自分よりある分野に就いては秀でていて、情報にも通じているが、別の分野に於いてはそうではなく、自分の方が上である、という様なことが、全ての個人に於いて存在し得る。すると一つの職業という意識だけでなく、そもそも社会的地位的表示さえ、絶対的固定化されたものである必要さえない。ある集団ではアーティストと名乗り、別の組織ではビジネスパーソンと名乗り、別の法人では学者と名乗ったっていい。つまりそういったフレクシビリティこそが社会に求められている(私はある一人の人間が何処かに住民登録する必要さえないと考えている。つまりそこまで社会全体が住民登録したいという人はそうして、そうではない人は方々で住居を持って、しかし国家に税金を纏めて払うと言う様な個々人の選択さえあっていいと考えている)。
 ある人間の能力は社会国家全体のレヴェルで決定されることではない。そういった考え方自体が既に権威主義以外ではない。社会国家の中にたまたま存在するある集団、組織に於いてのみ機能し、実力が発揮し得る。つまりそれが認知された段階でたまたま全国的規模である人がたまたま科学者であるとか作家であるとか認知され得るだけである。仮に芥川賞や直木賞が受賞者を毎年出しても、小説ファンとか文学愛好家が彼等の作品を巻頭に特集した月刊誌とか単行本で読まなければいけないという法律がない様に、全ての職業的認知に関しても、全国的規模の認知度が絶対とは限らない。ある集団や組織に於いて固有の地位を獲得して発揮される実力や業績の方を重視するなら、ある人が帰属先を変えると、そこでは又別の役割を求められ、それまでの業績内容が必ずしも問われないという様なアメリカ式の採用基準の方が余程現実的である。
 人間の能力は多くの可能性を秘めている。従って前歴だけで未来の業務が決定されるという考え自体が既に無策化しているとしか言えない。
 又宇野氏の主張する様にネット上で知り合ったヒューマンネットでも人々は他者同士で協力し合えるのではないか?奥谷氏はそれを否定されていたが、私は宇野氏の言う様に仮に隣人であってさえ特に私が住むマンションなどでは既によくどういう職業であるかさえ知らない(又知らない間柄同士であってさえ全く差し支えない)ということの方が多く、必ずしも隣人同士だけが何かあった時に協力し合えるとは限らない。勿論急病とかの場合には隣人こそが真に助け合えるということはある。従って隣人的地域住民同士の交流とか協力体制は重要である。しかしそれでも親しい間柄の人が必ず隣の人である必要はない。勿論隣人であるのにいがみ合う必要はない。只それらさえ選択肢があるのだし、同様に今は佐川急便とか様々な物流システムが発展しているのだから、そういった利便性をネット上での友人同士で情報交換し合って何か急な時に援助し合うという事態もあり、そのいずれが重要であるとか、そうではないとかは言い切れない、と私は言いたいのである。
 要するに協力的愛自体を地域社会で得られる個人であるなら、それはそれでよいのだし、そういう人はネット上での対人関係が二次的なものであってもいいが、地域社会では余りそういったヒューマンネットを得られない事情の人にとってネット上での協力的愛が成就し得る可能性があるのなら、そちらに救いを求めることは自然であるし、それを副次的なこととして、刹那的な価値しかないと言い切ることは暴挙である。
 つまり社会的生活形態の多様化に伴って、個々人の生活に於ける理想とか幸福形態自体が多様化していっていい。必ずしも結婚して子供を儲けることだけが幸福ではない。世の中には親子も夫婦も別々に生活している人達も大勢いて、そういった人達が必ず毎日夕食を家族団欒で過ごす人達より不幸であると言い切れるだろうか?
 かつて「岸辺のアルバム」という名作ドラマがあったが、仮に毎日共に暮らしていても夫婦も親子も真に絆に於いて結び付けられているとは言い切れない。勿論そういったかつての理想を体現している人達もいていいし、これからもそれこそを理想と考える人達がいてもいいが、彼等の価値によって社会全体が統一的に一元化されていく必要など更々ない、と私は言いたいのである。
 つまり幸福的価値基準自体の多様化と個々人の自由選択をこそ保証されることが、社会や国家、或いはその中で帰属すべき集団、組織の存在理由であるべきだ、と言いたいのである。
 勿論宇野氏が例示していた様な趣味の集いに感けて本業が蔑ろになっていっていいとは言えない。それはそれできちんとこなせば後は何をしてもいい。しかしその本業自体も必ずしも長期持続出来ないのであれば絶対すべきではないとも言い切れない。
 確かに今現在では職替え自体がかなり困難化している。しかしそれがもし出来るのであれば、実践して悪い訳がない。それこそこういう困難な時代に生き抜く智恵を我々に提供してくれることとなるではないか。
 新しいとも必ずしも言い切れない自分が生きてきた高々数十年の間にはなかった生活幸福観の登場にうろたえることほど滑稽なことはない。例えば今現在八十歳の人と二十歳の人にとって三十年前の日本の状況の意味するところは確かに大きな意味の違いが横たわっていよう。しかし七百年前の日本はこの二人にとってほぼ等価であると言えないだろうか?それは七百年前に日本であった出来事の意味に於いてこの二人を分断することが出来ないということであり、それは当然歴史的事実とは古ければ古いほど既に個々人の観念とか感情とは切り離された一つの歴然とした不変項目である。それと恐らく今転換期を迎えている日本で起こりつつあることは同じである。たまたまここ十数年の間に起きたことは、今八十歳の人にとってはなかったことであるに過ぎず、もっとロングスパンに於いて俯瞰するなら、必ず似た変化はかつて日本でもあった筈なのである。
 それは現代を代表する哲学者の基本的考えが既にプラトン以前からプラトン以後アリストテレスの時代迄に大方全部と言っていいくらいに出尽くしているということと同じである。
 我々は常に脳内思考を一つの思考傾向に絡め取られ習慣化された考えから一歩も後退することをしないでいるということ自体に危機感を感じていくべきではないだろうか?

 付記 少し前の日本では病院で死ぬということの方がずっと少なかった。必ずしも一人で自宅内で息を引き取る人にとってその死に方が不幸であるとは言えない。自分が死ぬ姿を人に見られたくはないという自由をNHKは一切顧みていないことにも私には違和感を覚える。それは死に逝く人を看取る側の一種の安易な満足感でしかない。<死ぬ時に子供や配偶者、その他に看取られたいと願うのも勿論個人の自由である。要するに死に方自体をNHK如きが一般化するな、と言いたいのだ。>(Michael Kawaguchi)

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