Monday, March 8, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第十九章 信じることとは何か?感銘を受けたりした人や好きな人の考えに合わせることと科学的事実 

 私たちは何かを信じる時、ある考えの場合、それをじっくりと考えそれが正しいと判断してあることを正しいと信じている。その場合理性が感情を統制している。
 だが一方ではあることを発見したりして何かを信じるということ(考えにおいて正しいと判断しているのではなく実例を経験して正しいと判断する)、ある人が、とりわけ自分が好きな人とか尊敬出来る人がしていることとか考えを正しいと思いたいので(仮に自分のそれまでの考え方と違っていたとしても尚)その考えを採用し、次第にそれを正しいと信じていくようになるということもある。
 そしてこの二つは必ずしも常に分離しているわけではなく(勿論分離して別箇の仕方でも存在し得るけれども)同時的である場合も多い。
 前者の判断は理性論的(合理論的)考えであり、後者は経験論的考えであると言える。
 例えば私たちはこの後者の例をあるキリスト教への改宗者の改心に喩える事が出来る。
 聖書は最初誰かによって書かれた。その時点で書いた人(あるいは人たち)はそこに記述されている事柄を事実として書いたか、それともそれを事実として人々を信じ込ませるために「作り事」として書いたわけだ。だが聖書が一旦万民へと行き渡ると、その聖書を読んで一字一句正しい、つまり本当にあった事として信じる者が出現し、その者が信者となる。その者を「最初の信者」と呼ぼう。
 その信者は布教活動をするようになる。やがてその布教活動をしている最初の信者の行動を観察して、次第にその姿に感銘を受けるようになる者がいたとしよう。その者を「第二の信者」と呼ぼう。
 その者もまた一度は聖書を読んでいた。だがその時点では決してそこに書かれていることを真実であるとは受け取らなかったとしよう。しかしその布教者である最初の信者の布教する姿と、聖書に書かれた事への信仰(本当の事であると信じている事)自体に感銘を受ける事によって、それまで「そこに書かれてある事は「作り事」である」という考え自体を修正し、「それは違う」と思おうと決意するに至る。そして最初の信者の信じるように「それは本当にあった事だ」と信じるようになっていく。要するに最初の信者の信念へと自己の信念を同化させていくようになる、というわけである。そして第二の信者になる。
 この信念の形成は理性が感情を統制していた最初の信者への懐疑が、最初の信者の布教行動を粒さに見るに連れてその信念に感銘を受ける事によって改心するわけであるから、感情が理性を統制する一つの典型と見ることも出来る。
 しかし同時にこの感情が理性を統制する事というのは、宗教的改心(この場合あくまで最初の信者に対する感情という事で考えているわけであり、それ以外の最初の信者のようなタイプのものも仮に彼が最初に聖書を読むまではそこに記述されている事を知らなかったが、それを読んでそれを信じるという改心のようなものもあり得るだろう)だけでなく、例えば理論上では正しいと思っていたこと、つまり理性論的に正当性を主張していた事が、ある科学実験過程を通して「違う」と実験結果から判断されるような経験論的判断においても成立し得る。つまり宗教的感情というものにあると取り敢えず私によって仮想された最初の信者に対する第二の信者による人格的、行動論的な感動という事実から、理性的判断、そういう素晴らしい人が信じる事は正しいに違いないという判断及びそれを信じ続ける信念は、実はそれを自然界の実験結果という経験的事実に対する「実験でこれだけのことが証明されたのだから、それまで頭で考えていた事とは違うということは正しいに違いない」という判断及びそれを信じ続ける信念と構造的には何ら変わりないという事が言える。
 そこで哲学的には自然科学的事実への信念も又一つの宗教的信仰の決意、つまり「それは正しいに違いないから信じることとしよう」という言わば感情が理性を統制しようとする信念形成のプロセスと捉える事が可能となる。
 信念が形成される時必ず何らかの根拠が必要とされるとすると、ある行動を意志し、それを決行する時には必ず意志決定の合理化がなされる。そしてある命題的態度を行為へと移行させる過程において、なされる「それは正しいに違いないから行為しても間違いではあるまい」という決意が介在することとなる。
 その意志決定の合理化において正しいと信じられることに対する信念を確固とするものとは、端的に「そうであると考えれば正しいと納得出来る」とか「そうであると考えればそれが正しいと全てがクリアに理解出来る」という理性論的判断であるケースと、「ある信じられる人が信じているから正しいと納得出来る」とか「ある信じられる観察事実によってそれが正しいと全てがクリアに理解出来る」という経験論的判断であるケースとに概念規定上は認識し得る。だがそれはそのように全く相反するケースであるように認識され得ることもあれば、そうではなくその二つが密接に絡み合って一個の判断と信念形成となっているということもあり得よう。またどちらか一方である判断と信念形成だけでは心もとないということから、他方の判断と信念形成を適用して、そちらも充足し得た時のみ「それは正しい」と結論し、それ以降それを信じていくということ、つまり決意することもあり得るということになる。

付記 次のブログにおいて本章と関連あることを述べているので参照されたし。http://poppyandbell.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-05a6.html

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