Tuesday, March 23, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十章 対話する上で亀裂がなかなか埋まらないこと

 哲学命題上での論争において私が実感してきたこととは、端的にある命題、例えば意識、自由意志、ゾンビといったことを考える際に、一番要となることとは、そのことを考える人間がそれらの命題を通して実際はどういう信念で述べているかということである。
 全ての言語行為は、結果的には示された記述や、発話内容の、意味に帰する。にもかかわらず、ある部分でどうしても理解が相互に得られないこともかなり多い。
 その場合実は多分にタブー視している、アンタッチャブルは信念、端的にその大半が有神論であるか無神論であるかということなのだが、それを相互に口を噤んでいるが故に、最終的にかなりの度合いで理解が得られているにもかかわらず、ある一線では決して相互に踏み越えられないという齟齬の感触を掴むこととなる。
 意識が神から与えられていると考えるタイプの論客でも興味深いことには、彼らは生自体への執着心を棄てきれないということである。もし来世があり、それがあるから死がその来世への旅立ちであるとするなら、本来死に対して恐怖を抱く必要がない筈だというのが私の意見であるが、彼らは端的に死を忌み嫌う。にもかかわらず彼らにとって生とは神からの思し召しであり、且つ来世は保証されているのである。
 これは私の実感からすれば矛盾しているように思われる。つまり来世などないというのなら、死自体への恐怖というのはよく理解出来る。しかし彼らは違う。
 クオリアを論じるということの不毛を私は以前から感じ取っていたが、そのことを表立って主張しているのは、ダニエル・デネットら極少数である。
 何故クオリアが論点として不毛であるかと言うと、あるクオリアを感受する人の感受の仕方(それは機能論的なメカニズムではなく、もっと現象的なこととしてのものである)自体が客観的には確認出来ないということだけではない。あるクオリアが発生するということが、赤いクオリアの意味が、例えばそれまでそんな鮮やかな赤い色を見たことがないという印象の問題であるのか、それともその赤い色を見た時に得た色彩的な感受それ自体なのか、それともそのようにその赤いクオリアを感じる一連の意識の流れ自体を指しているのかということそれぞれに対する「~がクオリアの感受である」という定義がデネットが「スウィート・ドリームズ」で述べているように、曖昧だからである。
 従って私見ではクオリアとは極めて知覚的印象に依存していると考えるのが自然であり、それはその印象を極めて特化するものとして記憶ということが考えられる。
 それはまさにデヴィッド・チャルマースの主張するような意味で「ハード・プロブレム」であることの理由自体が他の全てのように数値化し得ないということではなく、総体的な知覚体験の中でクオリア感受という事態をどのような水準で規定していったらよいかということに全てが収斂される気がするのである。
 それは痛いという感覚においても同様ではないだろうか?つまりある痛みを肌とか内臓に感じたということの持つ意味が、それまでにない痛みだったということ一つとっても、ある人生の時期において初めて得た痛み自体も、それが若い頃であるなら、身体的にも若いし、抵抗力もあるから、我慢することが出来たというようなことも考慮に入れるなら、痛み自体の感受とその痛みの性質自体も極めて過去から現在までに至る記憶的なことと大きな相関を持っていると言えるだろうからである。
 それはかなり身体論的なことであるし、痛みの感受自体への記憶の問題である。だが言語体験、言説上での体験、端的に幼児期における宗教体験性に根差した信念において、我々は死後の世界をそれこそカントのように概念設定上での条件として提示しているような時代と同様に信じている人と、そうではなくそれ自体に疑念を持って哲学に臨む人との間にはある種超え難い亀裂が命題論争中にも生じてこよう。
 日本人が進化とか自然と言う時そこには多くアニミスティックな感慨があるように経験上私は感じ取っている。それは幽霊とか霊魂、心霊写真などに端的に散見することが可能である。つまり科学的な信念として「それは非科学的だ」ということと、それが何となくあるように感じるということは確かに共存し得ると言えば言える。しかしそれを払拭し得るのが進化という概念への理解であるし、自然という科学的認識の理解ということであるなら、多くの日本人は死んだら無になるという発想自体を受け入れられない人の方が圧倒的に多いというのが私の印象だ。つまりそういう考えを持っていると老いた人に対して冷たいという意識を巣食わせることが多いようなのだ。
 欧米の形而上学とはそれを批判する上でも形而上学が拠って立つ神という認識を一旦は受け入れざるを得ない。にもかかわらずその命題論的な論争においても、真に神を信仰する者と、そうではない者との間の亀裂はなかなか埋まらないであろう。
 つまり死後にも意識が残存するということを含めて自由意志一つ論じていくに際しても、死後は無と化すということとでは全く論争は嚙み合わないし、意識も同様だ。それは従ってゾンビであるという状態の認識一つとっても(実は未だに私はゾンビであるということの意味がよく理解出来ない)、あるいはクオリア自体の感受をどういう状態のことを言うのかということに関しても多大な精神的ロスを来たしていくというのが私の意見である。
 それは前章で述べた最初の信者と二番目の信者という宗教教団的な意味合いでの結束ということで言えば、確かに最初の信者の信心に感動するということがあるかも知れないが、こと宗教というものは論じるものではない(避けるといった方が適切かも知れない)為に我々は友愛的な協調性を発見するが、最初の信者と第二の信者が論じ合う中で必ず齟齬が顕在化していくのではないか、ということが私の考えなのである。

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