Friday, March 26, 2010

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第二十一章 異星人との意思疎通が可能である条件、と言うより私たちと彼らが同じ言語所有者である条件

 私たち生命は皆外部の情報を摂取して生活している。只それはサンゴやナマコも同じようにそうしている。しかし彼らに脳はなく、それを「情報」であるという認識は持てない。勿論極論すればそれを「情報」と名指せるのは当然人間だけであるが、少なくとも名辞的理解ということのもっと原初的な形でなら多くの哺乳類でもあり得る。
 例えばその極プリミティヴな条件(情報を情報として認知し得ること)とは何であろうか?
 それを私は自己と他者を存在論的にも認識論的にも把握し、その両者が情報を摂取してその二つの間に質的、量的な差異がある、ということを認識し得るということに他ならないと思う。
 だがそれはあくまで情報を情報であるという基本条件であり、その情報を伝え合うという行為へは未だ直結しない。その情報を伝達し合うということ、あるいは自分に携えている情報を他者に伝える、ということはとりもなおさず相手から相手しか知らない情報を伝えて貰うということと期を一にしているが、それがなされ得る条件を私は次のように設定してみた。

① 情報格差が自分(自己)と他者間、あるいは他者と他者間において存在する。
② 情報共有の意志・欲求が存在する。
③ 自己と他者間相互に要請・依頼・命令・禁止その他の意志表示能力と欲求が存在する。
④ ①から③の意味を認知し得る(説明がよく出来なくてもそれ自体を把握している)。
⑤ ①から③をすることによって利益を得るということを認知し得て、実際にそれをしてみようという意志・欲求がある。

 これらは他者と自己の関係を理解するという事に他ならない。それを全部満たした時に言語行為を意思疎通として機能させ得る条件が揃ったと言ってよい。勿論我々地球人にとっての言語行為初期設定条件である。
 さてもし地球上にある我々の星から遠く隔たった惑星から到来した異星人が宇宙船のタラップから降りて来て、彼らと意思疎通しようと地球防衛軍の長官なりアメリカ大統領が異星人の対話手の一人と言葉を交わす時、少なくとも彼らが個体毎に移動するようなタイプの生活者であったなら、個体毎に考えがあり、自己と他者があるに違いないとそう思いまず声を発するだろう。だが勿論彼らに口のようなものがあれば、我々はそうするだろうが、顔の形状も、顔の位置もまるでよく分からないというようなことであれば、声を発しても、もしかしたら彼らには聴覚というものが存在するかどうかさえ分からないから、あるいは恐る恐る肌に接触しようと試みる地球人の代表も現れよう。尤もかなりぬめぬめとしたり気色の悪い風体だったりするなら、それをも躊躇するだろうけれど。
 だが少なくとも個体がその個体の身体から声を発するという形式で意思疎通がなされているのなら、我々はそれを言語行為と見做すに違いない。
 只重要なのは、個体と個体が声を発して言語行為をするにしても、記した①から⑤の条件を満たしているかどうかはやはり依然定かではない。
 例えばこの①から⑤の中の①が欠落しているとすると、彼らにとって地球人のAとBが語ることがそれぞれ別箇の個体から発せられていると了解されても尚、ひょっとしたらそれぞれが「異なった」考えを抱くという事、即ち異なった情報を異なった状況で摂取するということが理解出来ているとは限らない故(例えば一個体の発する発言が全ての成員による合意でなされている可能性もある)我々はかなり注意して発言することが求められる。
 例えばひょっとしたらこの異星人は全ての個体へと何らかの方法で全ての情報を瞬時に送信しているという可能性もある。だから個々が異なった発言をすることが当然である我々の流儀で意思疎通していいものであるかとめいめいが勝手に発言することが憚られる。
 しかしまず地球人は、この地球へと異星人が彼等にとって異星であるにもかかわらず訪れたという事実に於いて、それだけで意思疎通の意欲、つまり他者への好奇心があることを知っている。 
 好奇心とは何か?他者に対する最初期の認知を契機に、認知量が積み重なるに従って相手への好奇心が倍増し、その好奇心が更なる「知りたい欲求」を生み出し、認知量を倍増させるという認知と好奇心との相互補完関係が我々には認識可能だ。
 こうして恐らく異星人は地球を何らかの契機によって発見し、こうして訪れたというわけである。
 そして遠い星から私たち地球人と直接交信する為に宇宙船に乗ってやって来ているわけだから、当然それ相応の文明、つまり科学技術を持っている筈だ。そしてそれは我々の文明をも凌ぐものであるに違いない。
 そして逆に我々はそれ程の科学技術を発展させるだけの知性が①から⑤の条件を満たさない形で進化し得るか、恐らく地球上の全ての哲学者、認知神経学者、脳生理学者たちが挙って彼等異星人の知性を推し量ることだろう。
 情報量や質の個体毎の差異を認識し①、それを相互に交換し合う、例えばAのみ知り得るBの知らぬ事をAがBに、逆にBのみ知り得る事Aの知らぬことをBがAに伝えるという行為が成立する②。
 つまり②はAはBから、BはAから情報を摂取する事に利益があると理解している、ということは、それ以前にAはBを、BはAを自分と同じように理解しているだろう、と目算を持つことを意味する。私たちは実はこの①から②のプロセスにおいて、情報格差と情報交換への進展に於いて、相手もこちらと同じ認識と理解を持つという目算=直観を殆ど本能的に持つものと思われる。
 脳科学的にミラーニューロンでも証明されているが、このミラーニューロン・ファンクションが、あるいは好奇心を発動させ、その好奇心の発動が情報交換による利益を、偏利ではなく相互のものとして認識させる時、それを習慣化させる決意の下に、我々は「友情」とか「同志愛」とか「同僚同士の結束」とそれを命名し(心の中で記述する)ようとするだろう。つまりそうやって格差→交換のシステムそのものをその様に意味づけ只単なる生活を超えた人生の価値として位置づけようとするわけだ。
 その人生の価値を持続していきたいと願う心理が科学を生活上で定着させることを我々が歴史上でしてきたことを鑑みると、彼等異星人もまたそうであるに違いないと結論するのではないだろうか?
 こうして最初抱いていた異星人に対する懐疑的な意思疎通を巡る違和感を解除して、今度は彼等が発する音声を意味として理解しようと翻訳に努めるようになるだろう。通訳が登場して活躍する以前にまず翻訳家が彼等の音声を録音とか録画をして再生しつつ解析していく必要がある。
 言語行為である為には発語者にとってそれを発することによって、何らかのメリットが齎されるという目算が発語者にあり、そのメリットは、発語される側が発語され、それに応じて自分が返答すること、そしてその返答を聴く相手である最初の発語者がその返答自体をメリットのあるものとして認識することを相手が示すことによって得る快を認識しているということに他ならず、その双方における同意が暗黙の内であれ、言葉的説明であれなされていないのであれば、意思疎通としての言語行為は成立し得ない。
 発語する以前に、発語することで相互にメリットを確認し得るか否かという判断が介在しているのだ。それは相手が少なくともこちらが攻撃を仕掛けない限り向こうからは攻撃してはこないだろうという目算によって成立しているのだ。
 すると相手が個体毎にもし発語することが可能であると地球人が認識し得たのなら、基本的にそれは私的言語ではあり得ない。そこで文法解析、語彙の意味の解読が徐々に要請されていき、我々は異星人を地球人と同じ言語行為システムの保持者と認識していくことになるだろう。
 尤も発語行為をすることによって発語内行為にしろ、発語媒介行為にしろ、より相手を制覇したり、存在を壊滅させたりするような目的でだけで成立する、本当の意味での武器としての言語行為も全くあり得ないということもないかも知れない、という可能性に対して、それを打ち消すことは、そういった攻撃と壊滅だけを目的として言語行為によって進化を遂げる事、少なくとも異星にまで宇宙船を飛ばしてミッションをこなす事自体が文明化されたレヴェルで可能か、つまり文明自体がそのような相手に対する制覇と壊滅を目的としたサディズムにおいて進化し得るかという思考実験によって我々はその可能性の有無について判断し得るだろう。相手と対話する事で、仮に齟齬を来たしていくことがあったとしても尚、対話する以前よりは何かを得る事が出来ると認識し得るか否かによって言語行為の成立与件が証明され得るだろう。
 だがやはり我々には齟齬や対立さえ、一定の相互のメリットにおいて認識されていない限り、そのような本当の武器としての言語行為が成立し得るということ、あるいはそういった言語行為において文明が進化していくのだろうかということになると、いささか懐疑的にならざるを得ないというところが本当のところではないだろうか?そしてその理由を徐々に我々は解明していく必要があるだろう。それは直接その命題を考えることからよりは、寧ろその周囲の命題を一つ一つ片付けていくことによってのみ解明され得るだろうとは言える気が今は私にするのである。

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