Tuesday, October 4, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第七十章 原点に人類は絶対に回帰しない

 よく今の老人は「貴方も私くらいの年齢になったら、今の私の気持ちも分かる」という言い方をする。日本人は温泉が好きで、それは年齢を経る毎に皆好きになっていくとも言われる。
 私はさして温泉には関心ないし(嫌いではないが)、何が何でも高齢者になったら温泉に行こうという気持ちにはならないだろう。適度に好きで適度に無関心だろうと思う。

 老人になったら皆が皆巣鴨の刺抜き地蔵に行くものだとは限らない。
 例えば私くらいの年齢の人達(私は現在五十二歳だが)から今三十五歳くらいの年齢の人達にとって三十年後、或いは四十年後には案外渋谷の109辺りが同窓会をするのに相応しい場所になっていて、今渋谷は確かに若者の町であるが、ここ十数年の間に渋谷、原宿以外の例えば下北沢とか恵比寿とか大崎が若者の町化していき、逆に渋谷や原宿はかつて若者だった人達の集う街になっていき、三十年から四十年後の日本では巣鴨の刺抜き地蔵はかつて老人に親しまれたということで再評価され、若者のデートスポットになっているかも知れない。
 そういった意味では日本人の心の故郷は~であるという謂い自体は決して不変なことではない。十分年月と共に変化していく可能性はあるのだ。

 歌舞伎界の重鎮である市川猿之助の長男であるが、猿之助がかつての妻(浜木綿子)と離別したことで父子の間柄が疎遠になっていき一般演劇、テレビ、映画で活躍してきた香川照之が歌舞伎界にデビューすることを宣言して話題となっている。芸名は市川中車だそうだ。
 しかしそういう風に歌舞伎のことが話題となるのは、歌舞伎という演劇形態が既に一般的に庶民のものではないからだ。例えばどんなに歌舞伎自体が話題になっても、テレビの午後八時、九時、十時に今ドラマを放映している時間帯に歌舞伎が放映されることはないだろう。
 そういった意味ではかつて新派と呼ばれた現代演劇が一回は日本を制覇したわけで、その常識が覆るには何か途轍もなく大きな演劇娯楽上での革命的出来事がなければならない。

 今現在のPC端末のキーボードはQWERTY配列となっている。これはかつてタイプライターがそうであった配列のままである。この点でもっと左利きの人達にとって利用しやすい配列はないものかという思考実験は多くなされてきた。しかし極めて重要なことは今の配列のままずっと変わらずにきてしまっているので、それを変更することが今更億劫になっているというのが多くの利用者の本音である。つまり一旦慣れてしまうとそこからなかなか離脱し難いのである。しかし勿論それだけではない。何故なら既にPDA端末やタブレット端末が出回っていて、それら全てに付帯しているQWERTY配列をもっと理想的な何か別の配列に移行させるとしたら莫大なコストがかかるというのがメーカーサイドの変更しなさの根拠でもある。でも本当にそうだろうか?

 これは例えば楽器でも同じことが言える。ピアノの鍵盤が今後全く違ったシステムへと変更されていくことはないだろう。それはギターでも同じである。
 例えば今現在の鍵盤の音以外にもドとレとの間にももっと中間的な音が存在し得る筈だと唱えている人達は居る。しかしそれを楽器で表現しようとするなら、既にシステムが確立されているピアノ以外の別の楽器を開発していくなら可能性があるが、ピアノ自体に改変を加えるということはありそうもない。何故ならピアノのシステム自体が既に今迄の仕方で大半のプレイヤー達が慣れてしまっているからである。

 だから逆に何処ら辺迄なら改変が可能で、何処からもう改変させることを不可能にしていくのだろうか?それはまるで支持率を失った内閣が後は退陣を全ての市民が待っている様な状態と、一旦高支持率を確定的に維持した内閣はずっと任期一杯勤まるだろうということとに間の差異の問題でもあるし、カダフィ大佐もかつて外国では国賓クラスの扱いを受けていたにも関わらず、ある段階からは彼自身が南米のある国に亡命しようとして相手国の首脳に打診すると、全く無視されたということに見られる様な外部からの見放しということが顕在化していってしまうその臨界点とは一体何なのだろうかという問いでも言えることである。

 例えば日本人にとって伊勢神宮などは心の故郷と言われても、巣鴨の刺抜き地蔵はそこ迄は一般化し得るとは限らないと言えることの差とそれらは同じなのだろうか?

 再び芸能の話に戻ると、確かに全ての大衆演劇は原点としては歌舞伎があるのだろう。それに対して能や狂言はややそれよりはハイソサエティ的立場にあるとも言える。しかし全ての大衆演劇が必ずしも歌舞伎という原点に回帰するとは限らない。或いは演劇の全てが能や狂言に回帰するとは限らない。否却って益々原点から遠ざかっていく可能性さえある。
 例えば哲学ではギリシャ哲学が元祖であるとされるから、皆が皆原点回帰してソクラテス以前に戻るということはないに違いない。寧ろ原点とは既に皆がそうであると知っているが故に最早回帰する必要性さえないと認識しているものでもある。

 音楽で言えばアフリカの楽器が原点である故、打楽器であれ弦楽器であれ全てアフリカの民族楽器に現在音楽が回帰する様にはとても思えない。
 すると何故時々全ての分野で原点回帰ということが唄われるのだろうか?その根拠を問うてみる必要があるかも知れない。よく原点回帰すると言われるのは、ある世界であらゆるムーヴメントが錯綜して、次第に一体何処に本流があるのか見え難い状況になった時かも知れない。
 しかしギリシャ発のヨーロッパ金融危機、信用危機問題では、ではだからと言ってマルキシズムを復活させようという形にはならないだろう。勿論部分的には金融資本主義への見直しは盛んになるだろう。しかしグローバルエコノミーの構造全体に波及する改変では余程のものでない限り採用されないだろう。資本主義自体が既に初期発生期のものとはかけ離れてきているし、全ての経済をバーター交易に戻すことも出来ない。
 ならばいっそ全ての国際法を放棄するという方が未だしも可能性がある。勿論それは完全なる世界的規模のアナーキズム的発想である。もしそうしても恐らく世界の交易秩序はさして今の姿を変わらないだろうと私は予想するのだが。この問題はそれだけで一度徹底的に思考実験して見る価値がある。
 
 纏めよう。巣鴨の刺抜き地蔵に老人が常に集まるという習慣は恐らく日本人の精神的なイコンとして伊勢神宮があり続けるということよりは安定性、不動的地位性という意味では浮動的であろう。それは渋谷109が若者のスポットであるということもそうである。今皇居がある場所が五百年後も同じ機能であるということも浮動的ではある。又京都御所が五百年後にやはり天皇陛下と皇室一族の住まいであることの方が東京の皇居が皇居であり続けるよりは不動的地位性では確固としている様に私には思える。
 ピアノやギターは音を出すシステムが今後変わることよりは、ずっと新しいピアノやギターを改善した楽器が編み出されることの方が可能性としては高いし、しかしその楽器が今ピアノやギターが得ている地位に就くという可能性は半々だと言える。
 今ニューヨークを発火点に全国的規模でウォール街批判が火を噴いている。この様なムーヴメントはこれからも多くなるだろうが、アメリカが共産主義国家になる可能性は極めて低いだろうが、世界的規模で資本主義システムに改変が加えられる可能性は高い。
 そして資本主義も原点に戻ることはないだろうし、演劇や芸術も原点回帰をしないだろう。そうである。人類はそう安易には原点回帰しないのである。回帰というスローガンを持っていても、それは歴史的に遡行することでは決してないのである。それは何らかのムーヴメントを構築する為の一種の戦略なのである。歌舞伎が完全に日本の茶の間にテレビで放映されることはこれからもないだろう。だからこそかつて鈴木清順監督がフィルム歌舞伎という形で浪漫三部作を創造し、一つの話題となり、世間に印象付けられたのだ。

 不動的地位性、安定性ということはどの様に決まるかということを次回は考えていこう。それはある部分では改変させることを諦める意思決定の合理化が多くの人達によって合意されることによってである。それはあるシステムに人々が安心感を得ることによってである。しかしそれでも長い年月で徳川幕府も発足後三百年後には大政奉還した様に、完全不変であるわけではない。そのかなり長期に渡って変わらずにいることと、ある時点からそうでなくなることを決めるファクターに就いて、そして未来永劫変わることなくあり続けることで別段困らないことと、そうではなくそうであるが故に滅ぶ可能性のあることをそれぞれ考えてみよう。
 

No comments:

Post a Comment