Monday, October 10, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第七十三章 意味の理由・イコンとしての記憶

 意味の習得は追憶の彼方に後退しているが、誰しもそれを何とか記憶させた経緯がある。しかし全ての意味を我々はすんなりと受け入れたわけではなく、すんなりと理解出来たものからそうではないものまで幅があり、それは個人毎に違おう。それは自転車に乗れる様になった習得期間が短いか長いかの差と共に必ず個人内部ではある。しかしそれは通常公には晒されぬ様にしている。
 だから逆に本当は~と言うのに、何故か自分ではしっくりこないと感じる言葉はあるだろう。

 例えば英語でarrogantを意味する「傲慢な」という語に対して何故か自分ではしっくり来ないでいる者Aがいるとしよう。その者は「ごうまん」という響きがその意味とそぐわない様に思えるのだ。だからある日彼は友人に「ずうでん」と言いたいと言い出すとしよう。「頭殿」とでも振っておこう。彼はその後そのことを告げた友人の前では「ずうでん」とずっと言い続ける。
 しかしそれはあくまで彼にとってのみで、Aから「ずうでん」と言うことを告げられたDにとってやはり友人であるBは「俺ならいっそ、そんな言い方せずに、「らろべえ」と言いたいぜ」と言ったとしよう。「裸露兵衛」とでもしておこう。そしてAとBの言ったことを更にDはCにも告げるとCは「俺なら「ばるぼ」と言いたいぜ」と言ったとしよう。取り敢えず「馬留簿」とでもしておこう。
 要するにDは彼の友人A、B、C全てからそれぞれ違う言葉を「傲慢」に当てて、それを一々記憶していなければいけない。

 しかしよく考えてみよう。
 この「傲慢<ごうまん>」という語の意味に固有の音とは、それを習得した後に「そういう感じがする」という感慨を持つのであり、それ以前的なものではない。勿論「傲慢」という語を習得する以前に上から目線で生意気で不遜な態度の者へ何らかの傲慢として意味される感情をある者に抱くということは我々にはあり得る。しかしその時我々はいきなり、そういう態度を「すうでん」と呼ぼうとは思わない。他の何か既に知っている言葉を使って、「でかい態度だからあの人は嫌い」とか言う。
 もし誰しもが勝手にその感情を「ごうまん」と呼ぶことを覚えずに、何か自分勝手に今述べてきた様に「すうでん」「らろべえ」「ばるぼ」などと言い始めたなら、寧ろそれらが纏まって一つの意味であるという了解さえ持てなくなるだろう。つまり実は「ごうまん」という音を通した「傲慢」が存在し得るからこそ、そこから「俺なら「ずうでん」と言いたい」という固有の「ごうまん」という音に対するしっくりこなさが感じられるのであり、その逆ではないということだ。
 第一全ての人が自分勝手に「ずうでん」とか「らろべえ」とか「ばるぼ」などと言い出していたとしたなら、たまたま私達にとって「ごうまん」が生意気でエゴイスティックで不遜な態度であるという意味であるという規約の下で、しかし自分にとってはその音は何故かしっくりこないという固有のずれの感覚、固有のその語を覚えた時の追憶そのものを成立させないままでいることだろう。
 皆が勝手にそれこそ聖書中最大級に説得力を持つ「バベルの塔」建造を巡る神の怒りによって言葉が通じなくなる人々の様に、「ずうでん」「らろべえ」「ばるぼ」etcを言い始めたら、そもそもその元の「傲慢」を意味する意味も定まらず、それらを一々全部友人毎に違う語彙を当てていることさえ認知されずに、全てを各成員毎に違うこととして記憶せねばならず、次第にある語彙の音と意味がしっくりこないという感じ、或いは最初に「傲慢」という語を音と共に記憶した時にあった固有の追憶も成立しないままでいることだろう。つまり記憶する事項が多くなればなるほどある語彙を巡る固有の感情は成立し難くなるからだ。
 
 ある意味ではある感情に対する意味づけが、ある意味につきある音一つにだけ対応するという規約そのものが、それを習得する我々にある語とその音との間に介在してくる固有の感性を育んでいるのだ。この固有の感性は例えば自転車の例で言えば、ある個人にとって乗りやすい様に改良されることはあり得るとしても概ね自転車とはどういうタイプのものでも、やはり同じ自転車である必要があるのと同じである。例えば一人一人の能力や適性に応じてそれぞれ違う乗り物を用意しなければいけないのなら、そもそも自転車が乗れる様になった時、習得に時間がかかったとか然程時間がかからなかったなどの固有の思い出は成立し得ないだろう。
 これは各自使用しているパソコンが違う機種であっても、それらは同じパソコンである限り概ね同じ機能の仕方によって起動しているということと全く同じである。

 或いはこの問題を語彙とか利用されるツールという位相から、もっと記憶の問題そのものへと即応させて、イコンから考えてみることにしよう。
 日本人にとって神社仏閣が存在するのは日常的に見慣れたことであるが、神社仏閣にある賽銭箱、神社の鳥居、狛犬(シーサー)などは概ね同じ形でなければいけない。鳥居がそれぞれ違う形であったなら、そこが神社であるということを了解することが困難になる。或いはそもそもそこが神社であるという意識でそれらを我々が作っていないということを意味してしまおう。
 勿論人それぞれその形が好きであるとか然程ではないということはあり得よう。しかし単純で誰からも記憶されやすい形であるなら、それらは概ね誰にとっても然程違いはない感情を喚起しよう。要は一人一人顔が違う様に、仮に神社の鳥居の形が極めて細かい部分まで規定されていたなら、その形状に対する固有の感情が各自異なった形で立ち現れよう。
 これは語彙の意味と音の対応というデファクトスタンダードの下にその習得を巡る固有の出来事が記憶されることと似ている。神社が誰にとっても即座に「どの神社」でも同じ様な鳥居があることによって、神社に初めて行った時などの思い出が形成されるのだ。もし鳥居というものの基本形状が四つの直線、人がその間を潜り抜けられる様に縦に長い間の開いた二つの直線に、上方に二本の横の直線を交差させ、上の直線を縦の二本の直線を飛び出させないという規約があればこそ何処の神社でもそれは鳥居となるが、もしそれがまちまちであり、一切そういうことの規約が与えられていなければ、我々はそれを只の神社の入り口を示す門の代わりとしか認識し得なくなろう。或いはそもそもそれを神社であるという認識さえ与えられなくなるだろう。建物のデザインだけは全国で統一されているなら未だしも、それさえ統一されていなければ(第一鳥居の形状が統一されていなければ、そこが神社であると認識されずに終わろうから、中に建てられた建物が神社固有のものであるという規約さえ成立し難くなる可能性が大である)神社であるという認識は決して生じない。
 ある場所が神社である為には、その鳥居の形から本殿とかそういう建物の機能が全国的規模で統一されていなければいけないのだ。このことは実に興味深い。何故なら神社とは宗教心によって人々が集う場所であり、それは心の問題だから、人それぞれ心の在り方は違おう。しかしその心の在り方がそれぞれ違うという事実に於いて我々誰しもが容易に集うことを可能とする為に我々はその心を鎮める為の場所が誰からも了解される様にヴィジュアル的に統一された基準、つまりヴィジュアルスタンダードを誂える必要があるからなのである。

 従ってそれはある意味では心というヴィジュアルに在り方を示すことの出来ない代物を敢えて形状的に相互に他者の心を理解することを断念すること、つまりそういった理解を干渉と見做し、不干渉的態度を決め込むこと自体を容認した在り方としてヴィジュアルスタンダードが存在している、ということなのである。つまり神社であるという場所規定を我々に示すデファクトスタンダードは誰から見ても、それが鳥居であるという分かりやすさに於いてのみ成立している。それは説明する時に描きやすいということも言えるし、同時に実際に建造しやすいということも言える。

 これは文字というイコンにしてもそうである。誰からも読みやすく、書きやすいものでなければいけない。すると「傲慢」=「ごうまん」もやはり誰からも、その「ごうまん」という音自体の持つ意味への対応に対して「俺は好きになれない」とか「俺はまさにぴったりだと思う」という固有の感情をその語彙を使用するどの成員にも与えるとしても尚、何処かでは誰からも容易に記憶される音の響きであり、誰もが心に抱く感情であるということがまず前提として必要なのだ。だから仮に私にのみ固有の他の人にはほぼ絶対的に心に浮かばない感情があるとしたら、それは語彙化されずに終わるだろうし、音を我々はその感情に載せようとしないだろう。にも関わらず私はそれを語彙化させたいかも知れないし、それに音をつけたいかも知れない。
 ハイデガーは固有の語彙を沢山自著で作って載せている。これは新たに自分で語彙を作成する必要性を感じていたからである。だが「ごうまん」さえもが極めてある個人のある状況に応じた固有のものであならもっと複雑で長い、例えば「ある者Aが他人と話していて、その他人がAに取る態度の中で偉そうでAはその者にむかつく時に感じる態度」などとなってしまおう。しかし我々はそんなことを一々それぞれの者に応じてすることは出来ない。

 しかしである。或いはそもそも根源的には、そういうものとして「ずうでん」という音、或いは「らろべえ」「ばるぼ」という音が成立しているのだとすれば、或いは「ごうまん」さえ最初はそうであったかも知れないのだ。そうである。「傲慢」という他に対する感情の意味、或いは対自的認識は、誰かが最初「俺はあいつの態度に憤りを持っているんだ。ああいう態度を俺は「ごうまん」と呼ぶ」と誰かが誰かに告げた可能性があるのだ。そして意味とはそういう様に偶発的に誰かがあることやものに対して抱く感情を思い切って誰かに告げたということが発祥である可能性は大いにあり得るのだ。それは最初に鳥居を建てた者がきっと居たであろうということと全く同じ様になのである。

 次回は初発的に何かを提言することと、それに対して多くの人達が賛意を示すことでミーム化されていくことに就いて考えてみたい。

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