Sunday, October 9, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第七十二章 慣習化されることの中から時代が読み取れる(様にしている)

 ある習慣は根付くことは、ある部分ではその習慣以外に何かもっといい習慣がさしあたり見つからない時である。それは案外長期に渡って、もっと素晴らしい何か別の在り方が発見される迄そうである。

 徳川幕府は日本史に於いて極めて安定していたればこそ三百年続いたのだ。それはそういった政治、国内統治の在り方自体が、それ以前的な混沌の記憶の中から見出されないということからであった。それ以前では室町幕府もそうであったし、源氏と北条家による統治もそうであった。
 しかしある時期必ずそれらさえ打ち破られる。しかしそれが何時であるかを予測することは難しいし、それは実際にある一部の扇動者によってそうなるとも言えるが、その扇動者を現出させるのはもっと大勢の人達である。勿論日本史の場合、多くは百姓などによる民の生活それ自体を何処かでもっと安定したものにしたいと願っていた公家そして武士による采配によってであったが、それらは公家の社会であれ武家社会であれ、日本全国の時代状況がそう仕向けてきたとも言える。

 では時代とはどの様に性格づけられていくのだろうか?時代とは現代はマスメディアが表層的イメージを提供している様に見える。しかしやはりそれはマスメディア以前的にマスメディアを操作する人達自身に何らかの時代的精神を植えつけられているものがあるということだ。それは一つには経済社会であり、一つには国内の国民の移動、他地域との交流、海外へ旅行したり、海外から来日したりする人達全体の動向によって決定づけられている。そして哲学命題などでは一切時代的な意識を排除して考える傾向が強いが、しかしそういった哲学命題的なスタンスさえ、ある時代に生まれて育った人達によって考えられてきている以上、時代を無視して語ることは出来ない。時代精神は確かに大衆小説の様な形で直接示されることは哲学ではないが、やはり潜在的には濃厚に反映されている。

 例えばかつて隆盛を極めてドイツ観念論哲学などもそうであるが、考え方のモード自体も人類史的には常に大きく旋廻してきたし、徐々にシフトしていっている。今でもそれは全く変わりないし、アメリカ国内でもスティーヴ・ジョブズの死は「エジソンであり、ディズニーでありダヴィンチであった」とアナウンサーによって語られるほどの影響力を持ち得たが、しかしそういった存在はこれからもどんどん出現して止むことはないだろう。そしてどんなに偉大なるカリスマでも百年その命脈が維持されることはないだろう。
 だからと言って一人のカリスマが刹那的存在であるわけではない。そういった意味ではダーウィンもマルクスも現代的視座から見て古典であり得ても、尚何時迄も新たな命題を我々に提出している様な意味でジョブズもそういう風に語られるであろうことは想像される。

 時代を形成するものの正体とは一体何なのだろう、と問うと、それは一つには習慣が定着していくに連れて、慣習化されて、それがいいことであるか悪いことであるかを問うことが不毛であるとされ、慣習化されることによって立ち上がる一つの不動的な期間を時代と呼ぶことは出来よう。しかしどんな時代でも少しずつ生活スタイルも日々の習慣も変化していっている。そして人員も少しずつ新陳代謝して交代していっている。だからある日突然自分が途方もなく老いさらばえていることを自覚した時三十年前と今とでは全く変わってしまっていると気づくことによって時代は自覚されるかも知れない。しかし恐らく一人の人間の中ではたとえ五十年前のことでも鮮烈に記憶されている。そういった意味では記憶の深層に於いて時代は捉えられる。それは即ち時代が公共的なものだということ自体も一つの幻想ではないか、という視点である。

 時代は一個人の中で現象的に捉えられる記憶や習慣と共に、自分なりに各自が読み解くことであると言える。つまり一人一人の人生の在り方から全く異なった時代の在り方が存在し得て、それら全ては否定されるべきものではない、ということだ。だから時代という語彙を我々が使用する時明らかに、恣意的に公共的に一纏まりに大勢の人達が~であったと語るに相応しい素材を探して、あれがそうであると発見したことを論ってそれを時代にしているのである。しかし一群の人達にとってそれは決してメインな関心事ではあり得ないし、そうであった。今多くの人達にとって関心事であることも又別の人達、それは達と括ることさえ意味がないくらいに皆思い思いに違うことに関心を抱いている。ある人達にとって七十年代の日本が転換期であったかも知れないし、ある人達にとっては八十年代、九十年代、ゼロ年代がそうであったかも知れない。
 達と言おうとする時時代は立ち上がっているが、それ自体言語的伝達による恣意的な操作でしかない。

 社会はそれ自体大いなる幻想である。ある日ある人は社会から姿を消す。死ぬことによって。しかし社会全体には殆ど何の影響もない。それはジョブズくらいに偉大な仕事を成し遂げた人であってさえ。
 だから時代とは集団とか組織とか複数の人達による熱狂的気分が作り上げる恣意的なものでしかない。しかしそれに意外と大きく我々は日常的に影響を受ける。それは他者存在が自己に対して圧倒的に数の上でメジャーであるということを誰しも知っているからであるし、そうであるからに過ぎない。だからこそ認識の上では哲学と社会学はずっと対立し続けてきた。しかしそれは案外同じことの中の別々の展開でしかなかったとも言い得るのである。

 確かにマクロ的に言えばPC端末と携帯端末とが併合している時代に於いてPDA端末とタブレット端末の持つ比重が加速度を増して大きくなっていき、次第にPC、携帯両端末の並存から、PDA、タブレット両端末の間に存在する無限のグラデーションの方がメジャー化して、何処かにその理想的不動点を見出していくことだろう。PC、携帯端末共にやがて時代の遺物になっていくことは容易に想像される。
 しかし用途自体はさして変わりなく存在し続けるだろう。その用途の余り大きく変わりなさと、機器の利便性の推移、変化という両義性に恐らく何かがある。それは利便性がある機器だけでなく人員でもそうだし、社会制度でもそうである。
 変わりないニーズがあって、それに対処する為に益々便利なものが作られる。そして便利なものそれ自体によって新たなニーズが産出される。そこで大きく一つの時代の旋廻がなされる、と我々に自覚されるわけだ。

 これは既にリチャード・ドーキンスによって一段階淘汰と累進淘汰という形で示されていたし、それ以前にはスティーヴン・ジェイ・グールドやナイルズ・エルドリッジによって断続平衡説という形でも示されていた。進化論の問題でもあるし、人類学的なヴィジョンの問題でもある。しかし哲学的には時間というものは何か空間上に配置されたこととは違って、いっぺんに全てを見渡すことが出来ない。全ては記憶に依存している。ここが問題なのである。そして記憶は同じ時間を生きていた人一人一人でも微妙に違う。違う部分の方が本当は大きいのに、あたかも同じ部分の方が大きいものとして互いに語り合ってきただけのことである。

 映画がVシネマによって鑑賞され、DVDによって鑑賞される様になるに連れてかつてあった映画館の存在理由は変質してきたが、社会という一纏まりではそうであっても個人史では違う。変わらずに存在し続けたものもあるだろうし、変わらないと社会ではされてきたことでも個人内部では日毎に変わってきたものもあるだろう。その点で全ての人員に於いて時代とされるものと、自分で時代であると思うものとがずれている。そのすれだけが全成員に於いて共通したことである。何時迄も前時代のある部分に固執する部分を誰しも持っている。そして常に時代の求めるものに只管合わそうとしてきている部分もある。そしてその二つは常に全成員に於いて個々異なるが、異なるとか似ていると比較しようのないこととして密かに感受されてきている。恐らく、あくまで恐らくであるが、それだけが真実であろう。

 どんなに時代を先取りしてきた人でも必ず何処かでは浦島太郎的感慨を抱く部分を発見する。つまりそれこそが時間というものをあたかも、実在するかの様に(たとえ実在しなくても)思わせる何かである。ジョブズさえそれを携えていた筈である。でなければStay foolishと彼が言った筈がない。何かに関心を寄せることは、何かに対して無関心を決め込むことである。それは何かを推進していきつつ、何か推進してこなかったものから逆襲されることである。それはその人にとってどんなに社会的には小さなことでも本人からすれば大きなことなのである。偉大な仕事をした人につき物の後悔や贖罪心理は恐らくあるだろう。勿論それは社会全体からすれば些細なことかも知れない。しかし一個人内部では記憶というものは時代のメインストリームにマッチした形で存在するわけではないので、必然的に時代や社会全体のことなど個的で現象的なこととは全く接合しない形で、ずれはずれとしてだけ個内部では認識され、記憶され続けるのだ。人より遅くやっと自転車に乗れたということは大人になれば確かにさして大きなことではないだろう。しかし追憶に於いては案外何時迄も大きく心の中心に立ちはだかっているものでもあるのだ。

 次回は追憶ということに就いてより掘り下げて考えてみよう。

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