Friday, October 28, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第七十四章 意味の理由・イコンとしての記憶Part2

 前回は主に意味的なものとして設定されているデファクトスタンダードであるところの音的な連なりに対して個人内部で抱かれるしっくりこなさに就いて触れた。それは人それぞれ違う。しかし全てに対して我々は齟齬だけを抱いているわけではない。当然これはいける、これはかなりしっくりくるということがあるからこそ、社会成員として我々はまがりなりにも生活を維持出来ているわけである。もし全てに対してしっくりこないのであれば、それは全く言語的に母国語を理解出来ていないか、或いは完全に自閉的性格であり、それは先天的な脳障害であるか、後天的にそういったタイプの何らかの障害を持つに至ったと考える方が自然である。勿論そういう状態になったからと言って何か人間理性の最低限の何かに抵触するかということは全く関係ないと言える。理性とかヒューマニティといったことはそういった社会生活に支障を来たす意思疎通的部分とは別の位相の問題である。
 しっくりくると感じることのまず基本的なこととは共感出来るということである。それは個人から発せられる言葉やその音でもそうだし、集団レヴェルで今よく青年世代の人達が使う語彙に対してとか、世間一般、国家的規模で使用され定着しつつある語彙に対してとかでもそうである。勿論個々にはかつてタモリがテレビ番組で「等身大という言葉とは一体何ですか?」とかなり批判的に捉えていたし、私もある部分では同意出来るが、そういった感覚的にどうしても共鳴出来ないという語彙、言葉の使用され方というものはあるだろう。しかしそういった齟齬感を持っている誰しもが、同時に「それなら分かる」と思える多数の語彙、意味や音を共有している筈なのである。そうでなければ、つまり全てが齟齬しか齎さないのであれば、そもそも何かに対してしっくりこないという感覚は生じようもないからである。
 我々の生活にとってかなり幼少の頃から一種の社会に於ける最大の前提として叩き込まれ、そのこと自体にかなり早い時期から「それは何故だろう?」と疑問を持つこと自体を封じされるものこそ、貨幣経済の日常的な習慣、何かものを買う時必ずお金を払うということである。恐らく日常的社会生活上での慣習であり習慣であることのお金を払ってものを買うという以上のミーム化が徹底されたものはない。
 確かに言葉も極めて重要である。しかしもし只生存していくということだけを考えるなら、ものを買う時にお金を払って物品を自分の所有物にするということだけ覚えておけば、それ以外の語彙を一切知らなくても何とか生活だけはしていける。これは日本人が外国旅行をした時に感じてきていることである筈である。
 寧ろ個々の言葉とか音とかの全ては現代社会では既にこの貨幣経済的社会運営というものを前提して、その秩序内で社会的であったり反社会的であったりしながら、言葉の体系から言葉の体系や社会秩序自体への抵抗とか修正主義的見解とかが発せられる様にシステム化されている、と言っても過言ではない。
 音も意味もミームであるが、それらの意味や音感性を育むものとは社会生活上での基本的なインフラであり、社会秩序が前提して、それを疑問に思うことを封じる慣習がほぼ既に身体的な条件反射にまで還元される様な何らかのものであるとするなら、それは所有という概念、それは住んでいる住居から何から何迄全て個々人が個人としてのアイデンティティを社会生活の上で保証される個人による所有そのものである。あらゆる愛とか正義とか倫理とかいって抽象的概念でさえ、それらは所詮そういった所有ということ、或いは家族関係に於ける親族とか親等とかいった血族関係から血族と他人との関係といったヒューマンリレーションの取り決めとか通念を支える個人という概念そのものが所有という形へと還元される。身体的に朝起きて銀行のATMに直行するとか、夕方には買い物に行くとかいった全てがこの社会秩序に起因している。そういった生活の上で初めて愛とか正義とか倫理といった概念が考える余裕(語の側から言えば考えられる余裕)を与えられている。

 さてここで思考実験をしてみよう。
 我々は一体お金というものを一切使わないで生活出来るのか、ということである。例えばまずお金を使わずに生活する方法を考えてみよう。食料ということを考えると当然自給自足生活をしなければいけないから都市部ではなく農村部で生活する必要がある。只その土地を所有するまでは確かにお金を払ってそこに住まなければいけないから最初にはお金が要る。しかし国民の義務は納税であるから、それを逃れるには一切人跡未踏の地にその活路を見出さなければいけない。衣類や食器を洗うのは全て自然の湧き水とか川によってである。食料は農村開拓することは許されない(未踏地でさえ<静岡県の樹海とか長野県の山岳地帯等>国家か地方自治体所有だから)から採集生活、それ以外は猪の狩猟生活ということが考えられよう。
 勿論電気を使用することも出来ないから夜は明かりを自分で点す必要があり、薪、蝋などを巧く自然から調達しなければいけない。衛生管理的にも家屋をしかも遠くから双眼鏡で国家や地方自治体職員から発見されない様な穴居生活か、掘っ立て小屋を建てるにせよ、森で木々に囲まれた場所の選択も必要となるが故に、北海道などでも都合のいい場所はあるだろうが、こういった生活では癌にはなり難いだろうが北海道では凍傷にならない様に気遣う必要があるし、伝染病などにも気を遣う必要がある。衣類調達も狩猟によって鹿や猪から、そしてそれを縫う為の針等も石器などで作る必要がある。
 これは既に縄文以前的生活である。ここでは同じ様に完全自給生活者たる他者との邂逅なしにはかなり困難である。勿論不可能ではないが、そういった他者を必要とする様に知恵が働く。そしてバーターをして相互の利害を調整していく必要も出て来る。そこでそういった対人関係が形成されるに従って次第に貨幣に類するものを自分達で工夫して作ることとなっていくのだ。勿論現在の日本では一人でならそういったことは可能だし、同じスタイルを脱社会、脱国家的に実践している者同士で結束することが出来ないということを前提したならば、である。もし本当にそういった自給自足者が各地に点在していて、何処かで接点を持ったとして(勿論ウェブサイトなどは利用出来ないから全て徒歩で相互に出くわすしかない)そういった工夫をして全国各地でネット化されていく間には文明社会の人達と邂逅することもあろうし、そこで衝突も生じる。それなしにネット化することは不可能である。全く死ぬ迄文明的進化も持たずに反復生活を一人で行い場合のみかなり可能である、と言える。当然結婚をすることも困難であろう。しかし同じ生活スタイルをものともしない配偶者が居れば不可能ではない。しかしそうやって非文明生活を維持する成員が増えれば増えるほど文明生活者との邂逅機会も増加する。そして衝突も避け得ない。
 人間は脳内思考によって先程述べた様に、文明的な進化を目指す様になっている。従って完全自然バーターはそうする相手が少人数、せめて三人迄であり、しかし三人という数は順列組み合わせでA:B、A:C、B:Cという風に三つの関係を生じさせる。そこで統一基準を必要とする意欲が各成員に生じさせる。何故ならAがBに対してとCに対して同じものを調達するのに異なった量で相手と交渉するなら贔屓ということが生じてしまうが故だ。それはBとCとの邂逅が果たされることによって発覚する。従って最初から三人が同時に知遇を得るのではければ統一基準は最初からは作られ得ない。しかし同時にこの三人の間での関係で二他者の間に対他的な振る舞い、態度、待遇に差異を設けることに、実は資本主義の全ての仕組みが発生する根拠があるのだ。当然BとCのAに齎す物品の質は等量でも異なるし、付随する相手から得るサーヴィス、心づけ的なことも違おう。そこで当然Aは両者の間に差別化された対応をする。それは当然B:C、B:Aでも言えるし、C:A、A:Bでも言える。しかしそこでこの三者が全て相見えることによって、相互利害調整は可能であるし、それに気づく成員は三人の内に一人は居よう。BはCとも知り合いであるが、BのAからの待遇が、Cより劣化したものであることの不平をBがCとAとで同席した時に訴えることによって三者による智恵の出し合いから統一規準案が齎される。そこから当然貨幣的意味合いの経済規準勘案が齎される可能性は極めて大き。人間はまず思考する存在者なのである。

 恐らく言葉の意味や音といったこと、それらの対応などもこの三者の関係に帰するとも言える。AがBとCとで対話する時に使用する語彙が違うことはあり得る。しかしBとCも相互にそうであれば、いずれ三者は全員相互に認知された関係となり、そこで初めて統一基準が設けられることとなる。その必要性はいずれ誰からは齎され、それが言語の発生根拠ではないかとも推察される。
 AはBとCと対話する時一々異なった語彙を相互に使う。しかしそれは三人の内は容易い。それが人員数が増加すれば、せめて三人単位で固まった時の統一基準を必要とする。それが幾つか発生すると、異なった統一基準帰属成員間で一人くらい重複帰属者も登場しよう。するとそこで必ず異なった統一基準の間を取り持つ翻訳者を登場させる。その翻訳者がより進化した統一基準を考案し、この二つの言語統一基準が一個の新しい言語を産出することとなる。こういった連鎖によって国家統一的なことがなされていくというプロセスを我々は容易に想像し得る。
 たまたま文明社会から離反して生活する完全自給自足者による生活への思考実験が、その実現に伴う生活的利便性への追求と進化的プロセスが国家起源的謎の解明に役立ち得る可能性を私は今回示したのだ。
 次回はでは統一基準に対してしっくりこなさ感がある場合どうなるか、ということに焦点化して考えてみたい。

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