Thursday, October 6, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第七十一章 原点に人類は絶対に回帰しないPart2

 前回触れた市川中車の歌舞伎デビューで一躍脚光を浴びている出雲阿国以来の芸能的原点への我々の注視、原田芳雄の遺作となった「大鹿村騒動記」で紹介された大鹿歌舞伎、小鹿野町歌舞伎などの地域共同体芸能が再評価されていること全ては、実はそれだけ共同体的発想の熱狂が今日行われた小沢一郎元民主党代表初公判に見られる傍聴席での膨張など以外では大半が失われていることの証拠なのである。
 ある意味では貨幣経済が発生した段階から人類は着々とグローバリティへと向けて出立していたのだ。まず言語行為が定着したこと、そして貨幣経済が原始資本主義から中世、近代資本主義を経て現在の世界経済へと発展しているが、その途中でマルキシズムと共産主義が勃興したとしても尚、ずっと世界経済は貨幣経済を基本として営まれてきた。
 貨幣経済の基本は物品の売買であるし、直接売買ではない間接売買という形では株取引がある。
 株取引に於いて我々は株価という間接的なデータを常に参照する。株価が下がった段階で株を買いたいということ、そして株価が最大値になった時に株を売りたいということが、株のバイヤーと株主との間で駆け引きされるわけだ。
 要するに株主は株を最大値の時に換金したいが、その最大値であることを株のバイヤーは見越せば当然買い渋る。従って株の売買は、売る側からすれば一番高値で売りたいが、買い手は出来る限り高値になる以前に買いたいのだ。と言うことはそれ以上に株価が吊り上る可能性に賭けてバイヤーは株を買おうとするが、売る側は一番高値の時に売ることが理想であるということは、売る側も買う側も双方が最大の満足を得ることはないことになる。いずれかが最大の利益を上げればいずれかが損をしている。従って双方が同じくらいだけ満足するには同じくらい双方がやや最大利益より少ない利益で満足し手打ちするしかないということになる。
 それは直接売買でも言えることだ。一番安い時にどんな商品でも購入した方が購買者にとっては得であるが、何時もそうはいかない。日曜必需品はそうもいかない。
 貨幣経済によってどんな地域から来た人に対しても等しく売ることが許され、どんな地域へ旅をしてもそこで商品を買うことが出来るという意味で、共同体閉鎖社会は既に成立し得ようはなく、貨幣経済自体がグローバリズムを志向するのだ。
 
 陶芸制作はかつて納入先が限定されていたので、地方では窯元は職人が国から出ることを許さず、脱走したら罰せられた。隣接する別の共同体に陶芸手法を盗まれることを恐れたからである。
 そこでは当然共同体閉鎖社会が実現していた。しかしそれは基本的に明治期以降完全撤廃される。廃藩置県である。しかし再び道州制への効用も語られ、共同体的発想も地域、地方の時代ということで持て囃されている。しかしそれは完全にかつての共同体に移行することを目指しているわけではない。

 日本国内を円で統一すること、アメリカをドルで統一することなども国内の地域、地方格差からではなく、国内統一貨幣によるグローバリズムの発想である。それは言語的統一と共に進化してきたものであることも了解される。
 共同体回帰はノモスの側からピュシスの側への見直し、統一基準という形でのグローバリティによるアポロン的発想から、かつて在った地域的熱狂という形、つまりディオニュソス的発想の見直し以外ではない。
 それは端的に行過ぎたノモスとアポロンへの地下水脈的なピュシスとディオニュソスからの提言である。
 しかしやはりそれは言語を獲得した段階である意味ではピュシスを喪失した人類による修正主義的な考えであるに過ぎず、完全原点回帰ということ自体が語義矛盾である。貨幣が紙幣やコインではなく貝殻にしたってそれは同じことである。そうなのである。我々が言語を獲得した段階で既にグローバリティへの志向だけが中心化してきたのである。そのグローバリティの中心化こそがあるシステムを固定化することを我々が望んだということである。

 QWERTY配列それ自体の理想的在り方を巡る修正とは、QWERTY配列が完成されることによってのみ 問われ得る。QWERTY配列が決定される以前に色々試行錯誤してそう決定されたのだろう。しかしそれはタイプライターの発案者によることである。タイプライターはある時点で発表され発売された。
 そしてQWERTY配列が規格化された。デファクトスタンダードがそれ以降、だからこそそれ以外の配列の可能性に於いて考えられる様になる。もっといい配列はないものか、と。
 しかし今のところflick入力がPDA端末で採用されるに至って、同一データへ到達する為に唯QWERTY配列ではない形でのバリエーションが出現し、それがアプリ化される。新しいアプローチ方法が出現した時益々最初のQWERTY配列は固定化、安定化、不動的地位性を獲得するに至る。それはピアノやギターの音色以外の音を出せる楽器が開発され発明された時点で、ピアノやギターの音を出す位置の配列は固定化、安定化が齎され、不動的地位性を獲得するのと同じである。

 貨幣経済の場合は固定相場制から変動相場制へと移行し、固定化と安定化自体が不可能化した。しかしその段階で却って円が日本の通貨であり、ドルがアメリカの通過であること以外の規格出現可能性は消滅した、と言える。それは言語で言えばある語彙の定着と言っていいだろう。ある時点から東日本大震災と命名された様にである(それ以前は東北地方並びに太平洋沖大地震などとも言っていた)。
 何物かがデファクトスタンダードへと固定化されることは、何か新しいアプローチが進化した段階であると言えるのだ。
 しかしそれは習慣が慣習化されるという規格化の運命、制度的な決定という事態を必要とするのだ。そのことに就いて次回考えていこう。それこそまさに今回言述しなかったが、カダフィ大佐が国家元首から犯罪者へと世界的に統一されて見做される時点と全く構造的には同じなのである。

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