Wednesday, January 19, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第五十章 他者の中の理性を信じることの必要性と冷めた見方の同居

 前回迄のシリーズは次回から日本人の像とアメリカ人との関係を基軸に展開するが、少々データ参照に時間を要するので、別の内容から暫く(数回)考え、少し時間を経た後に再び取り掛かりたい。そして今回の様な内容が極めて今迄書いてきた全ての章と繋がりがあるのである。又以前取り組んでいた章のテーマとも次第に全てを密接に関係化しようとも思っている(例えば二十七章でPart1を更新した「否定という態度をどう捉えるべきか」などに関してである)。
 ある仕事を辛いだとか、退屈だとかを決めることの第一はある組織や集団での対人関係から、仕事自体の自分自身の社会的責務とか使命感との齟齬とか、自分自身の努力に見合った評価を下されていないということへの不満と鬱積からの場合が多い。それは何処か必ず自分自身の側にも問題がある。つまり意思疎通と、自己信念の他者全般への示し方に問題がある場合が殆どだ。
 しかし同時にこちらは誠心誠意示しているのに、全くその意志も意欲も心意気も全ての他者に通じないということもあり得る。そういう場合には組織や集団の在り方自体を変えていく必要がある。しかしそれは今迄の仕方(変え方自体)を何か変えなくてはならないだろう。或いは戦略も必要だ。
 人間は自分ではよく知っている、或いは理解しているつもりのものを本当はよく知らない、理解していなかったり、逆に本当はよく知っていて理解しているものを、変に遠ざけて知らない振りをしたり、よく理解していない振りをすることがある。その意味では自分自身に正直になることは案外難しい。
 何故そうなのか?それは我々が社会的動物だからである。他者と接し、そこで色々な問題と関わる。その際に我々は自分自身を見つめているのとは少し違う局面を体験する。それは端的に自分自身の何処か上の場所にあって、それは自分以外の全ての人達からしても同じである、或いはそうである筈だという前提で何かの問題に関わっている。その際に巧くことが運ばなかったり、自分が示した考えとか姿勢を誤解されたりすることはしばしばある。しかしそのことである会合とか組織とか集団と関わることが億劫になっていく場合に、その会合や集団、組織で自分にそういう気持ちを起こさせた人を変に過大評価し過ぎて、要するに自己にとっての天敵であるとか、苦手な相手だとか決め付けていく。勿論何かどうしても仕方がない理由で離れていこうとしている集まりに対して我々は、そういう決心を揺るぎ無いものにする為に決め付け的に判断しようとするだろう。それはそれで仕方ない場合もあるが、そういうケースが多くなると危険信号であるとは言えよう。
 日本の国会とか政治の世界を見ていると、何処か既に決め付け以前的に、本音で語り合うという姿勢を失っている様に見える。つまり全てが国民と、政治と国民の間に立ちはだかっているマスコミ向けのパフォーマンスに終始していると私からは見える。形式的にだけ民主主義の原理、公平な原理、正義を持ち込んで、実際にはそういった真摯な遣り取りをしている様には見えない。
 しかし政治では駆け引きということ、そこに図られる権謀術数ということが極めて政治力誇示に於いて重要であるが故に、モティヴェーション論とか正義論を真摯さのレヴェルから推し量ること自体が不毛である、と言われればそれまでであるが、マスコミを軸とする「見てくれ」的部分に多く意識をしなければいけない政治家の状況は健康的なことではないし、そういった対マスコミ的対策だけを期待させる様に仕向けるマスコミの在り方(菅総理への組閣後の質疑応答でのマスコミの人達のあの無策的質問内容を見よ)には辟易とせざるを得ない。
 政治の場合自分自身が直に参加する各種シンポジウムとは少し違う様相がある。それは政治の舞台に参加していない全ての人達の生活に次の日から大きく影響を与えてしまうというところである。従って政治に関わる人を、その性格とか人柄で評価してはいけない。それは一人一人少しずつ違う理性の在り方が、仮にある会合の流れとか場の雰囲気を決定している、つまり全ての差異が集合化して、その場の性格を決定している様な意味では、完全にその集合された立案され様としている法案の背後に存在し得る利害全体を把握しきれなさに起因する。つまり一人の代議士の発言から懸案全てが極めて多くの人々の利害に直接関わるが故に、ちょっとした一言が極めて重要な意味を持ってしまう。だからこそ失言とか軽はずみな行為が慎まれるわけだ。勿論だからと言って形式的なだけは粗相のない様にしておけばよいというものではない。しかしにも関わらず内的な誠実さよりは、外的に示される効果を考慮に入れた発言内容、発言機会の把握、政治的動き(人脈などの)も必要とされている、とは言える。それは心の奥底の真意とか誠意よりは、より見てくれ的に示される態度とか風格、貫禄といったことの方が重要だということだ。
 それは言語行為とか集団内、組織内での対人関係とか対人的な好悪感情自体が、既に言語行為上での対外的に示される自己行動とか意志発現から齎されていることに我々は往々にして忘れがちだからだ。つまりある余り好ましくない外部からの態度を得た場合、大概は自分自身の態度の取り方に問題もあったのである。勿論常に自分の側に問題があるわけではないだろう。しかし少なくとも自分自身もその場には居合わせたのである。幾分かの責任はどんな場合にでも自分にもある。と言うことは集団とか組織とはそれ自体その様に個的な信念とかプライヴァシーと常に別箇のものとして自分自身に於いても認識されているし、集団や組織自体もそうである。そして個々の異なった生活状況やプライヴァシーや、集団や組織自体への関わり方自体が少しずつ齟齬を来たしているという事実に於いて、その集団や組織は運営されているという現実の前で初めて、何故皆が皆の上の何処かにあるものを軸に集団、組織と関わっているかということの理由が明確化する。つまり全ての個人が少しずつ当該の集団、組織の為に真意を控え、我慢し、不満に耐え、真実の自分自身というものが仮にあったとしたら、何らかの偽装的態度で、演技し、ある程度偽の自分を装っているということである。そしてそれが極度に集積されたものこそが、例えば政界である。彼等代議士も参議院議員も、ある意味では全く自分自身の素ではない部分だけの集積から自己行動を好むと好まざるとに関わらす選択せざるを得ない。彼等の一挙手一投足に彼等自身の素のキャラクターは寸分も入り込む隙はない。
 つまりその事実こそが形骸化した対マスコミ的態度、真摯さよりは外部に示される姿が公化されることで得られる効果の方を最優先させてしまう根拠となっているのだ。
 かつて吉本隆明が言った様な意味での共同幻想が確かにあるのである。我々は一人の時と、二人の時と、それ以上の時という様に、人数が加算されるに従って少しずつ異なってくる態度の示し方、自分自身の真意や誠意の他者への示し方があるし、その際のメソッドも少しずつ変更されていく。すると問題化されることとは、端的に人、とりわけ自分が関わる当該の集団、組織での他者の真意での理性とは、個人的に親しくし得るか否かという自然人的友情関係外的なものであらざるを得ないし、そうでなければいけないということなのである。
 従って本章のタイトルにある信じるべき他者理性とは、端的に公的に示され得るべきものなのである。だからこそ、その公的な他者の態度とか行為、発言などは、全て自分自身の態度、行為、発言なども他者からそう受け取られるということだ。このことは極めて重要である。そしてそうであるからには、自分自身から出される全ての態度、行為、発言は自己責任である。それは皆そうなのである。又そうであるから、ある人の態度、行為、発言はそういった公的な規準での査定が求められ、それは好悪感情的なこととは一切関係ないものであるべきである。そしてそうである為には(往々にして我々はそうであるべきなのに、案外それを無視して好悪感情で全てを判断しようとする。それは政界でもよく見られることではないか!?)常に「待てよ、本当はどうなんだろう?本当は向こうはどう思っているのだろう」という一歩判断停止して、即座に判断していってしまう逸る気持ちを抑制し得る冷めた見方が必要なのである。
 そしてその冷めた見方とは端的に極めて他者内の理性を心底では疑わずに、信じようという決意からしか得られないものなのである。この点が最大限に重要である。人は案外疑うという心的作用を過大に知性主義的に持ち上げ過ぎだからである。哲学的懐疑論でさえそうであってはいけない(と私は思う)。信じること、取り敢えずは信じてみるという心的決定こそが他者内理性を引き出すし、それでも巧く行かない時には確かにその当該の対象を、それが特定の人であれ特定の集団、組織であれ去っていけばいい。
 要するに他者を信じることからしか他者内の理性をこちら側に引き出すことは不可能であるということは、平和も民主主義も只静観しているだけでは獲得出来ないということからも当然の理ではないだろうか?
 そして他者内理性を信じることを可能化する心的傾向性とは、端的にいずれの立場へも極度にも加担せず、いずれの態度をも好悪感情で即座に推し量らない冷めた見方、即座の判断を差し控える判断停止の習慣から齎される。

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