Friday, January 14, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第四十五章 日本民族と国家に行く末に翳る問題点Part2

 我が国のマスメディアやマスコミは国民自身が育てたものである。何故なら我が国にはアメリカと一番違うこととして、一度成功した人がずっとテレビ番組の顔馴染みになって視聴率さえ獲得出来れば、その成功した専門の仕事がかなり等閑になっていても一向に差し支えなく、タレント的に扱われ、それは人気がある程度に応じて文化人的な地位が与えられる。彼等は多くワイドショーに出演する。日本政治はここ数年完全にワイドショーねた的なレヴェルで政権交代から何から何まで行われたとしか言い様がない。
 マスコミの下世話なねたとは去年暮れにバカの一つ覚えの如く流された市川海老蔵障害事件の顛末と同じレヴェルである。
 日本人はアメリカ人とはまた一風違った形でこの種の露骨なテレビマスコミの視聴率だけを取らんかな主義を余り不愉快に感じていないのだ。つまりそうであるからこそ何時迄経ってもマスコミの論調に解散総選挙時期まで左右される様な現実に慣れてきているのである。
 これは日本人がエリートとかインテリとか特殊な優秀な人と一般人とが別種の人達であり、自分自身は生涯そういった専門的世界には関われないという諦念が支配していることとも関係がある。つまりそうであるからこそ、自分自身の眼で何かを確めることなく、その確める作業自体を怠っているが故に、その穴埋めに文化人とマスコミ全体が機能しているのである。ぬくぬくとその中間媒体的存在が肥え太っていくのである。
 これは日本人が言語行為的にも何もかも白黒つけずに玉虫色に収めたいという感性を持っているからである。つまりそこに日本人固有のシャーマニズムがあるのである。これは日本が精神的には完全に父系社会ではなく母系社会であることも手伝っている。
 日本はそれ以外にもかなり多くの種類の官僚達がのさばっている。その一つが公官庁の官僚達であり、その一つがNHKなどの報道局の官僚達、そして頭脳の官僚である学者、研究者である。そして実に奇妙なことには、彼等は全員一体感が同一セクト内、同一部署内では異様に強く、それはかの大阪地検特捜部の証拠隠滅書類改竄事件がたまたまかの部署で起きたが、似た様なことが他の部署で起きても一向に可笑しくはないという想像を一般には齎す。
 要するに日本社会は専門外的、同一業界外的事項に対して一切そちらの部署に委任しておけばよく、そうすることで逆に自己領分には一切干渉させないという不文律が徹底的に社会の隅々にまで行き渡っているのである。だから当然相手の面子を立てるという紳士協定は全ての世界に漲っている。それに反意を持つ者は自然と四面楚歌になっていき、自然と爪弾きにされていくという運命を辿ることとなる。
 そしてもっと重要なことにはそういった現実自体に一切の疑問を抱かず、外部に対して不干渉を貫くことを潔しとしている。つまりその徹底化された心的なスタンスこそがマスメディアを言いたい放題の世論煽動型機関へと肥大化させているのである。
 この問題は実は二章前の アカデミズムと反アカデミズムによる精神的反転現象について で扱った極めてシニカルではあるが的を得ていると思われる真理とも深い関係にある。
 つまり本来なら反アカデミズムこそがアメリカの様にどんどんと進出していくべきなのである。しかしそれを阻む空気はこの国には確かにあるのである。それはあからさまな差別ではなく、あくまで密やかなる、もっと陰湿な差別なのである。
 勿論一部青年に見られるニート的な歪な自己主張は批判されるべきではある。しかし同時に中島義道が「善人ほど悪い奴はいない」で徹底して批判している2ちゃんねる利用の匿名利用者達は(実際は彼等が中島の本を非難しているから彼はそれを敢えて取り上げているのであるが)かなり辛辣に自己立場に無力感を感じており、私も中島に同調し得る部分はあくまで記名コメントをするべきであるとは思うが、記名しても尚決して中島の様に沢山の本を出版するまでに漕ぎ付けることは至難の業である。だからある部分では中島の彼等ニート達への批判は当たらない。何故なら彼等にとってこういった書き込みだけが唯一発言が与えられる場であるからだ。
 つまりそういう風に一般の意見とか考えは徹底して2ちゃんねるの様な場でしか披露することが出来ない。であるが故に我々は2チャンネルの様なタイプの新規事業がどんどん社会に進出していく姿を目撃し得るのである。それは出版社自体が既に一定の収入を得ている中産階級達だけの常識に依拠して経営方針を立てているからである。不思議なことにこの国では全ての宣伝媒体、或いは全ての新聞社も一定の社会的地位を獲得している市民しか相手にしていない。にも拘らず例えば今日あった新内閣組閣の総理質問では一般大衆向けの下世話なねたで質疑応答をしようと仕掛ける。国民自身が彼等に侮られているのだ。
 しかしその事実に対して日本人は批判の矛先を向けようとはしない。否寧ろ積極的にマスコミの論調に乗ろうとさえするのである。
 つまりそうする最大の理由とは端的に他の人から爪弾きにされまいと身構えるからである。そしてそう身構えさせるくらいに日本社会は隅々にまで同調出来ないアウトロー、並びに逸脱的感性を集団で憎むという資質があるのである。これはかつて総会屋がしゃんしゃんと手拍子をしていた頃とちっとも変わっていない。人々の群れから外れていくことを恐怖する自己保身だけがこの国の民族に固有のシャーマニズムなのである。それは巫女的立場にマスコミを伸し上げているからである。
 しかし内心心ある人はそのことを知っている。そして内心では批判さえしているのである。しかしそれを表立ってしてしまうと途端に多くの視線から注視の的となり、過大な負担を背負い込むし、社会変革自体は途方もない時間とお金がかかる。そこでやむなくそういった心意気を持っていながら、全てを断念し、社会の隅々に漲っている差別を黙認することとなるのである。
 日本型差別とは端的に黙認である。沈黙によって全てを水に流し、沈黙することによって一切の罪を免れるという意識があるのである。このことに就いて次回はもっと深く掘り下げて考えていってみよう。

 付記 アメリカの反アカデミズムといったことは、あくまでマイクロソフトやグーグルやWikiLeaksなどの新しい事業展開に言えることであり、学閥は恐らくかなり日本以上にあり得る。しかし今そのことを特に問題にしていないので、そのことには触れなかったが、いずれ問題にしていくべきことではあると心得ている。(河口ミカル)

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