Friday, January 14, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第四十六章 日本民族と国家に行く末に翳る問題点Part3

 第四十四章と前章で私はacademismという語彙を政治レヴェルでも使用したが、これは語彙自体のテクニカルターム的認識からすれば誤りである。しかしにも関わらずそう私がルール無視をしてこの語彙を使用しても通じてしまうというところに、ある意味では重要な命題が潜んでいる。そして学問、芸術、音楽、文学などと政治は常に古代では一体化されたものではなかったかという考えの上ではアカデミズムと反アカデミズムを政治経済的アスペクトで使用することは理に敵っている。
 今回は情報摂取の仕方を巡る日本人の個人間に横たわるメソッドの全く関係のない世界同士の愕くほどの類縁性と相互不干渉的現実に就いて考えてみたい。
 私事であるが私は相互には余り密な連絡のない異なった分野の学会に三つ加入している。それには理由がある。情報摂取に於ける情報内容の信憑性に就いての確認の為である。
 私が職業上では学者と自分を考えていないタイプの成員なので、逆に学界全体を外部的視点で観察することがプロ研究者よりは容易である。その際重要なこととは、学界という一つの大きな官僚組織自体の存在理由を知ることが、それ以外の世界からの要請や期待、或いは幻想と現実にはどう合致してどう齟齬を来たしているのかということは、ある意味では現実と理想の狭間で現場のプロがどう考えているかということと(それは理想との齟齬に於いてどう苦悩しているかということである)その一切に対して如何に一般市民は情報的に封殺されているかということを知ることであり、この両者の関係を取り結ぶものこそ斜めの関係である。
 つまり若い学者、研究者は概ね大学組織の一員として教員としての就職口を探すのに躍起であり、その意味では特定企業のラボなどで職を得る方法以外では学閥的人間関係を構築して、横の連携と情報摂取、そしてあわよくば就職口を見出せた者はその後、後輩育成は勿論のこと、自分に就職口を斡旋してくれた年配研究者、学者との師弟的関係の維持に於ける、要するに縦横の関係の渦中にあるとすれば、それ以外の学閥外的人間との接触に於いては自らの専門的研究分野自体の一般社会への説明責任に於いて、啓蒙的スタンスを抱かざるを得ず、その点でそれを縦横外的対人関係という意味で斜めの関係と私は呼ぶのである。
 従って私が余り隣接していない(つまり重複して加入している会員が余り多くない)三つの学会に加入することで私自身へ得られるメリットとは、端的に学者、研究者外的立場の人全体が現代社会生活自体を成立させる為の一つの重要な指針である専門的情報摂取という意味で意義ある情報、しかもかなり信憑性のある情報を得る(専門家ではない立場の人でも確かさに於いて自負し得るところの情報を得る)為なのであるが、出来る限り離れた研究分野の学会に同時並行的に参加することで、そこで使用されるテクニカルターム、或いは問題とされている命題、今現場で問われている研究手法や関心志向性が、仮に一点でも二点でも全ての学会で共有されているとしたら、その情報内容(テクニカルターム、命題、研究手法、関心志向性)から類推される意味はかなり信憑性があるとは言えないだろうか?
 勿論学界全部とそれ以外という形でも我々は共有し合える情報内容はある。しかしそれは余りにも範囲が広大過ぎて却って一般的真理であり過ぎる。その点では余り隣接していない異なった学会全部で共有される情報はかなり学界外的一般民間人へも情報伝達価値があるものと見做していいのではないだろうか?
 要するに情報価値への容認に於いて、ある業界とかある専門分野に於ける関係者間で共有し合えるレヴェルと、その共有現実自体が業界、専門分野外的一般市民との間で価値的に認識し得るかという部分に、仮に一つのテクニカルタームがロングスパン的に未来へと受け渡していく価値があるものであるという結論を見出す余地がある。
 これはかなり下世話な下ねたから芸能界ねたに至るまで全く関係のない世界での関係のない人々によって共有されているのであれば、情報内容の信憑性はあるということで別ブログ「Nameless-valueの考えてみたいこと」で既に一度述べたことである。
 しかしこの種の民間心理学的、民間情報摂取的智恵はある意味では専門家の取るべきメソッドではない。そういう意味では例えば私が日頃何気なく若者が多く集う居酒屋で隣に座る若い女性の会話が聞こえてくるその情報内容とそう大差ない。しかしこの事実、つまり学界的現実、それはある意味では社会の頭脳として日本国家の官僚として確固たる地位を獲得している世界の現実なのであるが、それと居酒屋での若い女性達の会話との間に大差がないという部分にこそ、何か大きな真理が潜んでいるとは言える。そしてその部分にこそ民族性固有のシャーマニズムが介在していると考えることには理がある様に思われる。
 中島義道は近著「女の好きな10の言葉」で哲学者としての立場からシニカルに、寧ろ専門哲学的見識から離れて現代女性心理を分析している。その際に女性が男性を見る時、男性が女性を見る時以上に相手を「上、中、下、下の下」という差別的眼差しであると述べている。そして上とはあくまで将来自分の恋人なり配偶者なりになり得る可能性のある異性であり、中とは話を聴いたり話を聴いて貰ったりする価値のある異性なのであり、それより下は人間として存在価値さえ認められないというシニカルな視点を提示している。
 これは極めて言い得て妙である。何故なら私が昨日飲みに出かけた居酒屋でもその種の会話がまさに二十代前半から中盤、或いは後半世代の若い女性三人の間で交わされていたからである。
 内容はある男性(その会話の中の誰かの特定の親友と交際している男性であることだけは分かった。そしてその親友は他の二人ともかなり頻繁に接している関係にあるということも分かった)がその親友の前で接している態度と、それ以外の同性の人と接している時とでは全く別人格であるということであった。つまり彼女らはその共有して知遇のある友人の彼氏が友人の前では媚び諂うが、それ以外の友人関係では極めて傲慢な態度の人間であり、その調子のよさ自体に信用がおけないという主旨のものであった。
 この種の会話は多くの居酒屋での女性の会話を見ていると極めてよく見られるものである。そしてここで重要なことは、社会人としての女性は異性の理想条件として同性から信頼が厚く、異性には媚びないという姿を第一に挙げているということである。しかもその理想条件とは端的にそれを伴っている異性の方が出世もするであろうという目算に裏付けられているということだ。
 これは日本社会が極めて閉鎖的な対人関係で出世、非出世が左右されるということを示してもいる。
 もしこれが欧米社会であるなら、恐らく異性の前で一番いい所を示す男性がより頼もしく、それ以外の同性との間では闘争的なタイプの男性の方が出世していくと捉えるだろうからである。つまり日本社会が殊に男性の同性間の同調性、協調性に於いてその紳士協定性と異分野、異業界、異研究分野間に於ける相互不干渉主義とによって構築されている現実を一も二もなく容認し、その不文律に異性をより放り込もうとしているのが当の女性であるということが極めて重要である。これは日本が心理的な母系社会であるよい証拠である。
 つまり心理的にも精神的にも女性が社会的同調に対して異性である男性を訓育していくという側面が日本社会では多い。そしてこれがある種の従順な男性に於いては立身出世に貢献しているが、多くの男性にとっては息苦しく、それ故に多くの離婚劇を生んでいるのではないかと私は思ったのである(これ自体只単なる民間心理学的見解であることは重々承知しているが)。
 恐らくこの点では集団協調性とか同調とは無縁の欧米社会では女性が男性を精神的に訓育する、まさに妻の(或いは仕事上のパートナーに於いても恋人関係に於いてもである)母親化という現象は日本よりは少ないのではないか、と思う。日本の女性は端的に男性に対して母親の様な口ぶりをする。それはある種の日本人固有の社会モラル的なシャーマニズムである。
 そしてこのシャーマニズムは男性社会での専門家、研究者、学者、否恐らく政治家であれ官僚であれ全ての世界で通用する。異性としての女性が男性を精神的に訓育するという社会内暗黙のシステムが、仕事の現場で男性が「内のかあちゃんの為に粗相のない様にしよう」という決意を自覚せしめている。そしてだからこそ「内のかあちゃんの為に余計な口出しを他所様にするのを控えよう」という決意をも彼等はするのである。
 もう一度簡単に復習しておこう。
 日本では同一業界内でのみ通用する不文律があり、それは異業界では通用しない。であるが故にその相互不干渉が社会モラルとして暗黙のルールとして定着している。これこそが母系社会的シャーマニズムであるということだ。しかもそれは私が三つの余り隣接してない学会(とは言え全く無縁ではない学会同士ではあるのだが、そのことはいずれ又触れることとしよう)を同時加入している(こういう研究者や学者、専門家はかなり多数に上る)ことから摂取し得るどの学会でも通用する情報内容(テクニカルターム、命題、研究手法、関心志向性)が民間心理学的に余り関係のない分野間で通用すればするほど信憑性は高いという個の判断が、まさに居酒屋の二十代女性の会話上の判断とさして大差ないということと、そのことの暗黙の相互了解こそが日本社会の本質ではないか、ということなのである。そしてこの部分では欧米では日本と重複し得る部分もあるのだろうが、かなり異なっている部分もあるのではないかという私の直観こそが、今後私が考えていき、研究していく価値のある部分ではないかと考えているのである。

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