Friday, January 14, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第四十四章 日本民族と国家に行く末に翳る問題点Part1

 民族には必ず何らかの形でアニミスティックな感性やシャーマニズムが内在する。只それが政治経済の様な日常的自然言語世界を我々が営む一方、その自然言語の持つ様々な矛盾を統合した国家や民族としての秩序を持たせる為に一定の方向性を強制的に示す仕事に於いても現れてしまうか否かは、ある程度その国家、民族の持つ今後の命運を左右する。前者であるなら先行きはかなりやばいし、後者であるなら未だある程度どんなに酷い状況でも持ち直す可能性はある。
 私は日本人として生活してきた51年間何処かでそのことをずっと考えてきた。要するに人間は一体何処まで合理的に考えを推し進めて行って、何処からは個人の内面の信仰に委ねてもいいという部分での判断は極めて難しいと言えるし、個人毎に多少の違いが許されていいとも言える。しかしやはり何処かではこれ以上個人的経験主義、つまり哲学的経験主義ではなく、個人の中での固有の経験から引き出された自分自身にだけ通用する様な経験則を、公的場面で、或いは私的ではあれ個人的交友関係にまで適用することはまずいという指針は存在し得るのではないか?
 それがなければ徹底的に無秩序な情感主義に陥ってしまう。そして私は実は本ブログでもその他の幾つかのブログでも日本はマスコミやマスメディア自体の社会的ロールが極めて肥大化してしまっていることに危惧を抱き、それを告発してきた。一方でマスコミやマスメディアは無責任だしよくないと思っていても、それが改変されずにいて、それどころか益々政治経済全体の潮流まで影響力を行使してしまっているという事態は、ある意味ではそれを薄々は我々一般市民が潜在意識では望んでいるからではないだろうか?
 それはことに最近の日本史では二年前の政権交代でも顕在化した。実はアメリカも今の国家状況はかなり酷い。従ってアメリカではこれこれこれだけ進んでいるのに、日本はどうしたことか、という論調は成立しない。アメリカはアメリカで日本にはないいい意味での合理主義や責任倫理もあるだろうが、やはりアメリカなりの個人内部に巣食う迷信的発想が濃厚にある。
 問題はやはり非科学的信仰の持つ一定のプラシーボ効果的精神的効用を越権した迷信信仰的意志決定の合理化、つまり個人的独善的経験則が支配している分量によってその国家や民族の行く末に翳る諸問題の深刻さが示されると言ってよい。

 話をもっと分かりやすい例から考えよう。
 ある極めて魅力的な著述家がいたとして、日頃からその著者の本を沢山読んでいるファンが、その著述家が行う講演を聴きに行くとか、その著者が指導する結社とか研究会とか私塾に行こうという気持ちになったとしよう。しかし実際に接してみると、余り人間的には自分とは相性もよくないということはあり得る。それはその著者の本自体への理解とは別の問題として持ち上がる。その著者の本を一冊も読んでいない人の中にもその著者と極めて相性のいい人というのはあり、著者自身も熱烈な自分の著作物のファンよりも、そちらの方の人を大切に思うということはあり得る。しかしもしこれだけファンでいるのに、その著者が個人的に接してみると、自分にとって相性がよくないからと言って、一切その著者の本を今後読むのを止めたということこそ、実は極めて理性的判断や認識的正当性を等閑にして個人的対人感情へと委ねてしまっているか、混同してしまっているということが言えよう。
 人間的には自分にとっていけ好かない人であっても、その仕事の質とか、その質に対する自己内での評価は全く別である。従って実際に知遇を得てどんなに邪険にされても、その著者の著す本の質や主張、内容がよいものである限り、個人的交流とは別個に本を買い続け、読み続けることは不自然ではなく極めて自然であるばかりか、そうしないで自分自身への対人感情的な齟齬からその著者の本や、その行動全般に批判を加えたり、憎しみを抱くとしたら、その著者のファンの方が負けである。そしてそれは理性的人間のとる態度ではない。
 この種の単純な話から考えると、今の日本の政治シーンも経済シーンも、どこかそういった幼稚な怨恨から抜け切っていないのではないかと思えて仕方がないのである。
 例えば私の住むマンションの近所にコンビニや薬局があって、そこでレジで買い物をする時いい店員の条件は美人であるとかセクシーであるとかいうことではなく、端的にレジ袋を前に別の店で買い物したので持っていると、「ここに入れて下さい」と言った時、そのレジ袋の中に入った買ったものの配置から巧く入れてくれる店員である。言わなければ何もしない店員がいるから私は「ここでいいです」とその店のレジ袋を差し出そうとする前に言う。その時に対応一つで大体店員の商売の意気込みは分かる。
 何もしてくれない店員から、余り中に既に入っているものとのバランスを考えもせずに入れる店員、きちんとそこまで配慮する店員という段階がここにある。
 それは職務という形での責任倫理に対する受け答えとして存在者を私が私の生活にとって有益な存在であるか否かの査定が、好感度とかそういうことではないということを意味する。
 勿論自然人的な交友関係はあり得るし、そこでは好感度も重要なバロメータである。しかし先ほどのファンである著作家自身の人間性が自分自身にとって余り芳しくないものであっても尚、その著述家の本は面白いし、読みたいのであるなら、その場合著述家の人間性という自分自身の感情も混入するバロメータを一切無視して著述的業績からだけ判定すべきであるということをここで持ち出すなら、レジの店員こそ、サーヴィス業的職務遂行能力からだけ判定すべきである。
 しかし実際の人物的好感度とか交友関係は絶対に違う、と我々はでは断言出来るだろうか?

 今の政治がある部分では本質的には政治力学的な対人関係的な感情が誘引しているのに、あたかも政治的イデオロギーや政策理念に擦りかえられているのではないかという危惧を抱く国民は多いだろう。つまり国家とか民族の将来ということよりも政治家の利権や利害の調整という側面が強くなれば、我々は曖昧な好感度といういささか差別的感情がネガティヴに混入しやすい他者判断に、政治家や経済人までもが混入してしまっているのではないかという気分を全く得ずにここ数年日本で過ごした国民はいないのではないだろうか?
 例えば柳田元法務大臣の失言問題でもまた、我々はいつもとおりだと思った。つまり政治家は普通の職責ではないのだから、それくらいの配慮と注意力の欠如は許されないということだ。それはまあ正論だろう。
 しかしそれが余りにも過剰に力点を置かれ過ぎるとある意味ではぞくっと恐怖感を感じてしまうのは私だけだろうか?それはあたかも国民がそういう言葉尻だけで政治家の力量を判断するという風に、格下の存在として政治家達から見縊られているということを意味しないだろうか?「国民というのはバカなんだから、発言には気をつけなければいけないぞ」という政治家同士の発信の様に私には見えてしまうのだ。
 政治とはどんなにいい政策や理念を持っていても行動力であり実行力なのだから、六割善で四割悪、それが多過ぎると言うなら七善三悪である。特に小泉元総理人気に悪の部分を見まいとしていた多くの国民が、現況の政治に善を求めるよりも、それに伴う悪を虱潰しに撲滅しようと欲する心理が肥大化してしまっているのだ。インテリやエリートは心底冷たいと勝手に判断して、嫌いな政治家の意見は一切聞かないという考えで生活している人なら、態度自体が嫌いだとか、素振り、表情が嫌いだということから、その行動責任に於いてたとえ優れていても、一切認めないという風になっていく判断ではやはりかなりレッドカードゾーンにあると言ってよい。そういうファナティックな老人が多いし、そういうファナティックなインテリでもエリートでもない中年も多い。これはかなり真実である。そしてもし日本にそういう庶民だと自分では決して思っていないのに、エリート階級やインテリ階級からすれば、何処か庶民っていうのはそういうもんだと踏む考えがあるのなら、それは日本人が無意識の内に抱え込む固有のシャーマニズムだとは言えないだろうか?
 それを私はかつて別のブログ「Nameless-valueの考えてみたいこと」で数回考えて書いてみた。そのことに就いて次回は考究していくこととしよう。

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