Friday, January 21, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第五十一章 否定という態度をどう捉えるべきか?Part2

 肯定的に何かを、誰かの意見を否定する場合には、それを肯定しようとする立場を必要とする。つまり強い否定とは、肯定に対する抵抗である。まさにそれが強い肯定であればあるほど強い否定へと通じる。例えば特に外圧に屈して否定しなければ本来ならいけないものを誰かが肯定している様な場合、そこに心にもないことをしている、つまり外圧に対して卑屈に媚びている(それが仮にかなり誇らしげに媚びていても、真実ではない仕方のあることに対する肯定は、その行為存在自体が卑屈である。従って権威や権力への屈服した態度とは、それがどんなに傲慢不遜でも卑屈としてしか定義され得ないし、感知、認知され得ない)行為自体への批判がある。これが強い否定の感情的、情動的ニュアンスである。
 それに対し弱い否定の場合、仮に自分ではさして大したことでも大したものでもないと思っていることやものに対し、ある他者が過大評価している様な場合、それを窘める態度の場合に示されることは多いだろう。つまり下らないものやことを素晴らしいと評価している者の浅はかさを指摘する為に施される否定とは端的に上記の外圧的屈服への盲従に対する痛烈なる批判よりは、その者の判断が主体的であることだけは認めているが故に、その主体性にではなく、あくまで判断力に対して批判しているのだから、上記よりは幾分弱い否定である。つまり肯定的否定の中でも否定的否定に少しだけ近づく。
 しかし本当の否定的否定とは、本来ならば肯定したいのに、ある程度の外圧的屈服があって、それを否定しなければいけない様な状況では起き得る。例えば文学賞の審査員達の間である優秀な文学作品が登場したとしよう。しかしその作品は作品の質の上では最上のものであると思われても、それ以外の候補作で素晴らしさが同じくらいの作品は後二つあったとしよう。そしてそれら三つの作品は同程度に評価し得る。しかし一時に三人を受賞させるわけにはいかない事情がその文学賞である(大概はそうである)場合、後二つの作品の作者が今回で共に三回目に候補に挙がっていたとしよう。すると必然的にある審査員にとってその作品が主観的には一番推したいものであるから、その意見を一応他の審査員に告げたとしても、最終審査に於ける申告で、他の審査員全員が後二作の方を推した場合、それを通すことを頑なに拒否しても、叶わないと知った場合には、ある程度致し方なく最初に推した新人の作品を推すことを撤回することは大いにあり得ることだ。こういう場合には弱い否定だから、否定的な否定ということになる。従って否定的な否定が一番多く未練を残すこともある。尤も今の次回作に於いてその作者がいい作品を書いた場合にはその審査員はよかった、やはり彼(女)は実力があった、とそう思えるから、一回は見送ったことはよかったと思うだろう。またその作品の素晴らしさだけでその後作家が終えてしまった場合にも自分自身の前の作品への思いは只単なるその時の贔屓であったとも思い直せる。しかし素晴らしい次回作を書いたその新人が二度目の候補作が受賞が決定したその日の午前中に不慮の事故に見舞われ他界したとしよう。すると審査員はあの時こんなに早世するのであれば、せめて何とかごり押ししてまでも受賞させてあげればよかった、とそう思うかも知れない。こういう場合にはかなり未練が最後まで残る、つまり忸怩たる思いを発生しやすい選択肢として否定的否定というものを位置づけることが出来る。
 外圧的屈服によって肯定を否定に、否定を肯定に転じさせる場合、否定を肯定に転じさせた場合、例えばある総理候補になった人がいたとして、その者が本来余り個人的感情の上での好きでないし、且つ政策的なことに於いても必ずしも賛同し得ない場合でも、自分自身が世話になってきたある有力議員からの熱烈な推薦に迎合して仕方なくその総理候補に一票を投じるということはあり得る。しかしその議員が本当に素晴らしい実績を上げた総理としての仕事をした場合には、尚且つその仕方なく一票を投じた政治家にとって、その時の否定的肯定は結果論的には「正しい判断だった」とそう思える。しかしその総理となった人が余りにも目を覆わしむる行為で酷い総理となっていったなら、「あの時の私の判断<外圧的屈服>は間違っていた」という感情を誘い、当然かなり忸怩たる思い、要するに後悔と未練を残すことになろう。とりわけ自分が推奨していた別の総理候補がいて一票を投じた時点でいて、その者が実際に総理になって為政者となった人よりも優れていると誰の眼にも明らかである様な現状である様な場合には、尚更であろう。
 この二つの場合、つまり否定的否定と否定的肯定の場合、どちらがより後悔を誘うかということは俄かには断定出来ない。只今挙げた例示に於いて、文学賞候補者が次回作で受賞するその直前で死去する様なこと(先程の事例で後発的に付加した仮定)を除いて、一般には否定的否定が適度の愛の鞭的なことである限り、否定的肯定よりは後悔は少ないとは言えないだろうか?つまり心底相手を容認してもいないのに、その者を肯定しなければいけない外圧的屈服ほど、その容認していない相手が自分自身の見誤りで実際には優れた者であった場合を除いて、特に相手がやはり自分の思う通り肯定すべき何物も持ち合わせていないことが発覚した場合の後悔と未練は否定的否定より強いのではないだろうか?
 つまりそれはプロフェッショナリティ(それは見方に於いてもそうだし、職責的にもそうなのであるが)として自己自身喪失に直結する。或いはその意志決定的薄弱さへの自信喪失、或いは自己存在自体への卑屈を生じさせずにはおかない。従ってnegative negationである仕方なく肯定しているものを否定する方が未だしも救いがあると私は考える。それだってかなり忸怩たる思いが、先程私が挙げた例の様に文学賞審査員が一度受賞を見送らせた当該の候補作作者が本当の受賞の寸前に急逝するという様なケースはあり得よう。しかしその罪悪感も最低限プロフェッショナリティ自体の威信を自己へ傷つけない。つまり多少の罪悪感とは死刑執行人が死刑になって当然の死刑囚に対してさえ抱くことに近い。それはプロとしての悩みであり、プロであること自体への懐疑は齎さない。
 しかしnegative affirmation は完全なる権威への屈服以外ではなく、それは職業倫理的にも敗北である。そういう決断を下すと我々はジャン・バルジャンを逃がしてしまったジェベール警部の様にプロとしての自己存在理由自体を懐疑の底に沈めてしまう(あの小説では、しかしそれでも尚職業倫理以上に大事なものがあり得るかという問掛けがあったのであるが)。私達はどんなに生活死守の為の社会的妥協をしても、これだけは避けたいと心底では願っているのではないだろうか?もしそれを誘引させてしまうとすれば、それは一重に生活信条上での怠惰以外ではない。そしてこの種の態度に慣れてしまうことこそ我々は精神的老いと捉えてもいいのではないだろうか?

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