Sunday, January 16, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第四十九章 日本人とnation、日本人の性格・これからの世界・日米関係はどうなる?Part2

 アメリカ人の発想には彼等が日常生活で引き算が出来ない様に、マイナスの発想はない。例えば薬剤の副作用を減らす為に薬剤服用を差し控える(これは日本人的発想である。が実はこれもきちんとして科学的根拠は全くない)という発想へ至らず、只副作用を解毒させる又別の薬剤を服用するという発想にしかならず、又拳銃所持によって突発的な乱射事件(最近も下院議員も銃撃され、多くの死傷者を出した事件があった)も間を置いて反復されるが、その解決法として更に拳銃を所持しやすくすることで自己防衛をしようという発想へ至る。
 日本人にとっての「水に流す」潔さは端的に分析的な究明の忌避感情に起因する。日本人が遺伝子組み換え食品を忌避するのは土俗宗教的感性からであって、決して科学的合理性によってではない。只単に遺伝子組み換えという語彙が齎すイメージが日本人的迷信的感性にそぐわないだけである。従って無農薬野菜に拘るのも一重に土俗的信仰的感性からである。
 日本人は原因究明求心性の曖昧な断念、要するに滅びの美学、もののあわれ的な情感主義者なのである。だからこそ薬の副作用があれば、薬の服用を断念しようという方向へと動く。これと無農薬野菜への信仰は同一理由によるものである。

 今後世界はウェブサイトの益々の充実、拡充から一方では益々世界市民としての個人性とオタク性と、それに抗う様なアンシャンレジウム(懐かしい言葉だ)残滓としての国家主義(nationalism)が併存していくことだろう。が同時にその二つの精神の分裂が益々世界を新たな様相へと突き落としていくことだろう。
 私の親友のK氏(社会教育学者)は知的エリート層より中間層の拡充を至上命題としているが、私自身は彼より二十歳若いのであるが、今の社会がかつての様に全ての世代が調和を図り国家全体が全国民を統轄し得るのは幻想で、K氏はその実現の為に憲法改正をし、徴兵制を施行すべきだとまで考えておられるが、私はそれは実質上不可能である、と考えている。
 そのことは意図論でも書いた。しかしもっと詳しく述べると、徴兵制とは一律に兵士へと青年を徴用することであるが、それは個々人の資質や特技を抹殺するからである。募兵制であるならいいと思う。日本もいずれは軍事的独立も果たさねばならぬだろうからである(そのことは後で詳述する)。
 要するに青年世代が変に観念的な知性を身につけ、実用性から遠ざかっている姿はここ数年多く見てきた。多くは文科系的センスの人に顕著であるが、実労をバカにしている。これは極めて危険である。実際のところ文科系的執筆業は需要から言って然程多くない。従って多くの実務経験のない青年達は遠からずニート化していく運命にあるだろう。従ってある程度強制的に観念上ではない実在世界に社会奉仕し得る実労経験を積ませるということは大事ではないだろうか?(私自身は比較的多く仕事が見つかった時代に青春時代を過ごせたので、そういった経験も多く積んで社会勉強にもなったと思う。)
 実在経験の蓄積からしか真に社会に有用な哲学は齎されない、ともし私が言えば反論したくなる青年は大勢いるだろうが、それは哲学専門性からではなく社会全体から言えば正論である。何故なら社会全体から言えば専門哲学や文学は然程大きな位置を占めていないからである(従ってそのことに自覚的なプロだけがある程度それで食っていく権利があると言えるだろう)。
 今の青年は特に肉体労働を知らない人は多い。だが身体障害を持って生まれた青年も大勢いるのだから、徴兵制などは不可能であるが、募兵制的にすれば、能力資質別役割分担も可能となるかも知れない。(K氏の考えは多分に去年のNHK新年座談会での西部邁の考えに近く、私はそれよりは宇野常寛に近いものがある。)社会指導者層は能力資質別役割分担という調整能力を問われるだろう。
 さて日本は恐らく益々オタク的に全専門分野が細分化され、総合的視野は極一部の政治指導者、一部の経営者、一部のエリート層のジェネラリティにのみ委ねられているという状況へと転化しよう。するとそこでは最早大半の市民が総合的視野を欠如させ、天才的超魅力保持者である扇動者が独裁政治をしていく危険性(或いはかなりいい政治をしていく可能性もだが)はある。K氏や西部邁氏の考えは懐古趣味的センシビリティで、四十年遅れでミシマイズムを再評価する様なものである。
 
 しかし強ち兵役制度の復活は無意味ではない。勿論それは全面戦争へと向けられたものではなく対テロリズムとしてである。しかもそれは全世界的にどの国もが世界平和の為に分担していくべきなのだ。そしてもし兵役が復活すれば青年達だけでなく全ての市民が参加すべきである。例えばそれは中年もそうだし、老人が肉体的に無理であるなら応分の経済負担をすべきである。
 何故ある程度兵役復活に意味があるのかを述べよう。
 それは当然戦争をしかけるものではないし、平和憲法の骨子は永続させてもいい。しかし実際に我々の身近に多くのテロは差し迫っていて、それはいつ何時日本にも押し寄せるかは分からない。従って世界的規模でテロ撲滅の為に防衛システムを構築していく意味はあるのではないだろうか?
 ある者は無線技術で貢献し、身体障害者はそれなりの仕事を分担するという様にである。従って軍隊と言っても昔の日本陸軍の様なタイプのものでは決してない(日本では自衛隊と呼んでいるが、あれは事実上完全なる軍隊である。それは誰しも知っているのに、それをうやむうやにして存在理由に就いての問いを封殺してきただけである)。
 何故我々日本人にも正当な理由で兵役を復活させるべきかと言うと、それは一重に戦後軍事プレゼンスを世界のリーダー且つ警察官であるアメリカ一国に過大に肩代わりさせ過ぎてきたと私は考えるからである。
 つまり私は、そういった経済大国で世界政治経済のリーダーであり且つ警察官としてもリーダーであることをアメリカ一国に負担させ過ぎたことこそが、実はリーマンショック等の金融システム破綻劇を招聘したと考えているのである。
 アメリカは一方で戦後常に世界経済金融大国であり続けてきたが、他方常に世界の軍事的プレゼンスの頂点としても君臨し、戦争の最前線に常に立たされてきた。そのアメリカが戦後日本の社会秩序を方向付けたことは事実であり、その際にはマーシャルプランを受け入れる形で平和憲法も作られた。しかし日本では田嶋陽子の様な極端で歪な民主主義平等倫理的女性論客に象徴される様なジャーナリズムが国民全体に蔓延していった。それは一重に平和幻想である。
 平和は只で手に入っていたのではなく、日本の場合あくまで米軍に多額の報酬を付与することで得ていたのだ。しかしジャーナリズムは常に平和=善という図式にだけ当て嵌めて全ての報道をしてきた。オバマ大統領が当選して大統領に就任した時も、そういった日本とアメリカの戦後世界的現実を一切反故にする様な報道も目立った。しかしこれは言わば現実逃避的スタンス以外ではない。
 軍事負担はアメリカ国民の国威発揚でもあるが、同時に多くの遺恨も生んできた。つまり世界の平和安定という形での建前でベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争という各戦争に於いて、最前線の兵士の間に多くの精神的ストレスを与え、シンドロームを招聘してもきたのである。
 その様な国家の経済運営がデッドロックにぶち当たらぬ訳がない。マネタリズムに代表されるゲーム理論等を応用した金融理論全部を否定することは恐らく出来ない(私はそれほどの知識もないし、そう断言出来ない)が、この様な理論に奔走したアメリカ人知識人層の間に固有の現実逃避があったと考えても強ち見当違いとも言えない部分はある。
 今後の世界平和秩序に於いて脅威となるのは、やはり宗教原理主義的なテロリズムであることは間違いない。それ等の抑止の為に世界各国が経済力、各民族国家毎の能力差に応じた責任分担をしていく必要性は大いにある。負担と貢献の世界的規模の役割分担を真剣に模索すべきフェイズに世界は入ったと私は思う。それは一重にアメリカ社会と国家の過大な精神的負担を軽減することを主な理由としている。そしてそれが結局世界経済も政治的安定へも寄与し得る、と私は考えるからである。
 しかしその為には旧態依然的な軍隊システムではない新しい合理的な防衛軍事システム、しかもかなり多くのタイプの能力資質に応じた役割分担を可能化する新秩序を要する。だからこそ最初にアメリカ人のマイナス欠如型思考傾向と、日本人の土俗的感性に就いても触れたのだ。つまり民族性とはそう一朝一夕で変更が利くものではないが故に、そういった民族性(世界の民族に各自備わった)に応じた役割分担を世界で模索してく必要がある、と私は考えているのである。
 これは絵空事ではない。世界秩序構築の必要性を蔑ろにしていれば、いつか人類は本当の意味で悪辣な世界的規模の扇動者の出現によって生存自体を危機に晒す危険性がある。それがゼロではない限り、そういった時の為の思考実験をしておくことには、只単に哲学者の思考実験としての意味合い以上のものがある、と私は考えているのである。

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