Friday, January 14, 2011

〔トラフィック・モメント第二幕〕記述と構え 第四十七章 日本民族と国家に行く末に翳る問題点Part4結論、そして今後の研究を示唆する真理

 私は前章を書いた後で直観的な真実を次の様にツイートした。

沈黙、黙認、水に流す、好感度、この四つが日本社会に蔓延する決定的不文律であり、それを操縦し、実質的に支配しているのは女性である

 沈黙と黙認が日本型差別であることは第四十五章最後に触れた。そしてそれが次章である第四十六章で女性上位性を精神的訓育面から捉え、日本は要するに精神的母系社会であることを述べた。
 これは玉虫色の判断を善しとする日本人の判断傾向を裏付けてもいる。そのことを少し考えてみよう。その前に暗黙の男社会が日本では農耕社会が弥生期から定着していったことから、基本的に非狩猟民族的な不文律として昨今の流行タームを借りれば草食系男社会に於いて、益々女性は影の支配者として君臨していて、その女性的感性が玉虫色の判断を理想とするという事態を招聘していると私は捉えているのである。
女性は基本的に日本史では仕事とか職務からは遠ざけられてきた。それは「男子厨房に入るべからず」という諺にも示されている。この謂いに示される男社会的な不文律は家庭労働が実労には入らないという日本男子的常識と一致してきた。勿論昨今現実にはこれは当て嵌まらなくなってきている。これは男女雇用機会均等法施行以来の転換点となっている。
 しかし幾ら一切の常識が戦後社会で日本が転換してきたからと言って、日本人固有の思考傾向までは一気には変えられない。それは生活の隅々にまで浸透しているが故にそう容易に変更が利くものではないと言える。その一つとして沈黙は美徳的なことを私はツイートしたのだ。
 そして日本女性は多発言男性、饒舌男性を嫌う傾向にあることは既に明白である。だからこそ沈黙は美徳、そして他人の悪口を一切言わない主義の実践者こそが日本ではもてる男性の代名詞なのであり、それを私は短いフレーズにして考えツイートしたのだ。
 水に流すとは何時迄もぐちぐちと後悔したり、他人への中傷をやめないでいたり、これも既に古い言い回しとなってしまっているのだが「女々しい」「女の腐ったの」といった謂いに象徴される男性への暗黙の非難が諺化したかの様に私には捉えられる。
 つまり日本では女性からもてる、受けるという選択肢から自然と男性は非多発言男性、非饒舌男性としての印象を異性から得たいという構えを構成していくこととなるのだ。
 ではそれと玉虫色判断とはどう繋がるのだろうか?
 それは案外単純である。女性は地図を読めないとか、余り立体的構造を理解するのに長けていないという性的傾向が各種自然科学的見地から立証されているが、それと恐らく何処かでは繋がる真実として正確なデータよりも概算的なデータを理想としたいという性格が男性よりは強いのではないだろうか?つまりその曖昧理想主義こそが情報的正確さ(それは男子に於いては殊に官僚的職務に代表される様に、各種専門分野では至上命題である)に対する怠惰を一方で美徳としていく様になる。それは最早国民性となっていると言ってさえ過言ではない。
 世間一般の個性的人材にはよくこう自分を称する人がいる。
「俺は生来の詩人なんだ」「俺は天性の芸術家なんだ」
 しかし当然のことながら、こう言う人に真の意味で詩人や芸術家はいない。かつて私はブログNameless-valueの考えてみたいこと の「今年ツイッターで示した考えについて/意図・責任・行為・価値・反省意識」でも述べたことであるが、日本では出世コースから外れたリタイア老人が異様に個性的であることが多いが、彼等は一般に現状認識も、正確な情報摂取からも極めて遠ざかっている。これは真実である。それは主婦の友的レヴェルで「心の故郷」化された存在として地域社会で自治会長などをしている老人に顕著である。試しに彼等に去年大きな反響を呼んだWikiLeaksやFacebookについて質問をしてみるといい。大半が返答することが出来ないだろう。
 要するに日本社会にとって最大の実害となっている兆候とは端的にこの種のリタイア老人が未だに地元社会では厳然と保守的力を保持していて、それに迎合する主婦層、そしてそれにつられて妻の意見を取り入れる一般サラリーパーソン達による(従って独身サラリーパーソンは少し違う)連携的な無知称揚主義、つまり非インテリ、非エリート階級的本願ぼこりが、情報摂取に於ける正確さ、精密さを蔑ろにしているのである。
 つまり日本社会ではエリート、インテリ階級の常識と、世間一般の常識との間に極度のずれがあるのはこの点に存すると言ってよい。そしてこの不幸なずれこそが「学者バカ」「絵描きバカ」「専門バカ」といった語彙を定着させているのである。そして端的に日本では正確なデータに拘る者は、それが極めて順当な論理であり説得力があってさえ、それを「学者バカ」「専門バカ」として非難し、玉虫色判断を是としてきたのである。そして感性の革命家である芸術家に対してなら「絵描きバカ」と言って蔑んできたのである。
 そしてこの世間一般とエリート、インテリ階級とのずれに対して、世間一般の不文律の方を常に優先してきたマスコミ的良識に対する批判と指摘に内在する理念的主張に関する限り中島義道の諸著作での意見は正しい(只彼は自身の生来の学者的資質がずっと戦後民主主義教育に於いて仲間外れされてきた幼少期の恨み節を未だに諸エッセイ著作で展開させ、自らの文化人性、学者的探求性を誇っているところに私は固有のスノビズムを感じて嫌いなだけである)。
 日本人は一神教民族ではないし、有神論者でもないし、無神論者であっても、欧米型のその種の人々とも決定的に違う。又日本に広く普及している仏教文化も欧米型の一神教とは本質的に違う。従って日本人には(これはいいとか悪いとかいうことではなく)ロゴスはない。
 それは言葉による説明と、説明に対する理解より、より体得ということを美徳として重んじてきた文化の国に相応しい現実的真理である。それは一種の文化的伝統である。
 その最もシンボライズされた語彙こそ日本固有の教育語である「躾け」である。
 勿論欧米社会でも体罰は大いにあり得る。しかし日本の 躾け には本質的な欧米社会との違いがある。それは日本では欧米と違って大人が子供を躾けるということに限らないということである。
 つまり実質的に男社会であった筈の男性が絶えず日本民族固有の性善説(まさにそれが向こう三軒両隣といった観念を長く日本が温存させてきたのであるが)的美徳に加担し同意してきたのは紛れもない事実である。
 つまり日本男性は女性から訓育される、つまり女性の感性に裏打ちされた固有の良心、或いは「良識(それがまさにマスコミを誘導してきた実体であることは既に何度となく述べてきた。それが所謂抽象的で曖昧そのものである)=正確なデータで立証するのではなく、概算的要求をすることを是とする集団論理、つまり玉虫色の判断」<それは全ての示談、分裂調停、集団内での確執に対する解決と処理、経営者による決裁に漲っている>を是としてきた。この様な固有の不文律を恐らくかつて井沢元彦をして「日本は法治国家ではない」と言わしめたのだろう。日本は中国とは又一種異なったタイプの人治主義国家であり民族である。
 それを一言で言い表すと、分析を悪とする思想であり、感性的直観による判断を善とする思想である。そしてそれが極自然に出来る者こそ好感度があるということであり、その好感度を左右するのは常に女性であり、その好感度獲得をした者こそが第四十五章冒頭で示した様に文化人としてのレッテルで世間から見られ、その専門性を蔑ろにしていってさえ、彼等の意見は他の専門家よりもより重んじられるのである。この常識は恐らくアメリカではあり得ない(何も私は全てアメリカが正しいと言っているのではない)。
 かつて池田満寿夫(1034~1997・版画家・画家・作家・写真家・陶芸家)は「私自身のアメリカ」(1974)で日本では一回芥川賞でも何でも賞を受賞すればある程度一生生活が保証されるが、アメリカでは二三年しかその栄誉では生活は保証されず、それだけ生き馬の目を抜く社会であると述べていた。
 しかしそういったアメリカの不文律が全て正しいわけではないということは、昨今のアメリカの世界的規模での失態から言っても正しい。そして欧米流の分析至上主義だけが正しいのでもない。しかし同時に日本人の中に脈々と受け継がれて来た分析忌避傾向、正確なデータ引用、参照、それを基にした証明を極度に嫌悪する民族的資質があるということだけは確かではないだろうか?そしてその曖昧さを好む気分主義、情感主義は一方では三島文学や川端文学の様な優れた遺産を生み出しても来たが、同時に全く何時迄経っても明確な道筋の見えない政治的停滞をも招いてきた、そしてその政治的停滞全体への処方を未だに日本人が見出せずにいること、そしてマスコミ全体の論調に漲る全く根拠のない固有の市井的良識こそが今最大級に批判対象として我々の前に提示されている、と捉えることも強ち日本の未来、社会全体の行く末を見据える時に無意味ではないだろう。
 
 次回から京都を何度となく訪れ来て私が感じた日本文化のシンボル的意味合いと、奈良との比較などの文化論へと移行させていこうと考えている。その基本的考えとは日本が日本人自身による欧米型のnationをずっと回避し続けてきたという精神的現実から考えていきたいと考えている。

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